もちろん、国から仕事を受けられなかったとしても、今している仕事に役立てることも可能です。たとえば、学生の中に、金沢の九谷焼屋の社長さんがいるんですが、九谷焼に関する論文を書いたんです。その人にしか書けないし、研究家としての顔を持てると、ビジネスにも説得力が増しますよね。これも、自分の興味を起点に、キャリアを拡張したからだと言えるのではないでしょうか。
ただし、自分の努力だけでは限界も
リモートになったことで、去年は1限から授業をみっちり取っていました。僕は語学をこれまであまり学んだことがなかったので、思い切ってドイツ語、イタリア語、スペイン語、ギリシャ語、ラテン語、プログラミング言語、くずし字の7つを学んでいたんです。理論と仕組みはわかりましたが、当然どれも習得できるわけはありませんでした。
そしてこれがいちばん大きな挫折なんですが、英語に関しても「アカデミック・ライティング」という、学術的な文章について学ぶ授業を受けていたんですが、「ああ、本当に向いてない……」とついに悟ってしまいまして…。英語なんてやればできると希望的観測を持っていたので、自分にとってかなり衝撃でした。
僕ができない理由は日本語がもともと空気を大事にする、ほかの言語より曖昧さを含んだ言語であったことです。さらに僕の場合は、テレビのバラエティーという、ある意味非論理的な言語空間で、厳密な表現をしないことを磨いてきてしまった。曖昧な話術がしみこんでしまい、学術英語のあまりの厳密な論理性が頑張っても身につかないんですよ。
「学び直し」には国の施策も必要
僕にとっては「個人の努力ではどうにもならないこともあるんだな」と感じた一件でしたが、きっと学び直しも同じでしょう。多くの人が学び直し、学び続けるようになるためには、国の施策は間違いなく必要だと思います。
たとえば、週休3日制にしてあげて1日は大学に行かなきゃいけないとか、単位を取った分だけ税金が安くなるとか、逆に取らないと高くなるとか(笑)。社会政策として打ち出さないと、お金や時間に余裕があるか、よっぽどやる気がある人しか学びなおしに行かないのが現実でしょう。
でも、副業を許す会社が増えているように、副学を許す企業は増えていくと思いますし、働き盛りの人が、それぞれの好きなことを学べたのなら、日本経済を浮上させるきっかけになると思います。新しい発想のビジネスが生まれる可能性もあるし、消費者の観点から見ても、そうやって学び続ける人が増えると、モノの価値を理解できる人が増え、結果的に物価が上がると思うんです。「この深さと奥行きがあるから、この商品はいいんだよね」と思えるようになれば、価格以外で、商品を買う理由ができるからです。これが、日本社会を浮上させるには人文社会系を学ぶのが大事なんじゃないかと、僕が考える理由です。
日本経済が順調であれば、変わっていく必要もないかもしれませんが、現実はどの業界もへたばっている。どうせ拡張せざるをえないのであれば、学びのほうに拡張すればいいと思うんです。日本社会も、それぞれのキャリアも。(構成:岡本拓)
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