平安文学を題材とした作品が多いなか、私は特別に印象に残っているのは、2004年に刊行された『藤壺』という1つの短い小説。
それは藤原定家の手による『源氏物語』の注釈書、『奥入』にも言及されている「かかやく日の宮」と題された幻の帖から着想を得たものだ。
光源氏より5歳ほど年上の義母、帝の妃でもある藤壺宮は、幼い時になくなった生母・桐壺に酷似しているという。時間を共に過ごしているうちに親密な関係となり、切ない恋心を募らせている2人は、やがて結ばれることになるが、奇しくも、その最初の逢瀬は『源氏物語』において描かれていない。そこで、永遠に失われた「かかやく日の宮」の巻のなかでその内容が記されていたのではないか、と寂聴さんが推測する。そして、『藤壺』という作品では、それについて空想をめぐらせる。
許されぬ恋に手を貸した女性の心境
『源氏物語』が作成された当時、高貴な女性のいる屋敷、ましてや妃が暮らす後宮、に忍び込むのはけっして容易いことではなかった。だからこそ手ほどきをしてくれる女房の役割が非常に重要だったわけだが、寂聴さんは藤壺宮の心の機微ばかりではなく、許されぬ恋の成就に手を貸した女性の心境にまで思いを馳(は)せる。
「ようございますか。この企ては、人倫の道にも仏の道にも叛いた極悪道でございます。生きて露見すれば只事ではおさまりますまい。万に一つもあの世まで秘密が保たれたなら、無間地獄へ投げこまれましょう。今はまだ思い返すことはできます。いかがなさいますか」
作者が想像した王命婦がこうして、状況の危険さを懸命に訴えているものの、光源氏をけっして止めようとしない。藤壺宮に忠実だからなのか、光源氏に惹かれていたからなのか、それともどんな形であれ、恋を求める者を見捨てられないからなのか、あえて危ない橋を渡ろうとする理由は明らかではないが、その背景には奔放に生きた寂聴さんご本人の横顔が透けて見えるのは私だけなのだろうか。
外国語より難しく感じてしまう古典文学を、現代の言葉に置き換えるばかりではなく、その舞台に登場する更衣、女御、中宮など、無数の人々に新たな命を吹き込んで、物語の奥底深くに隠されている力を引き出すことに成功したのは、作家としての寂聴さんの大きな魅力の1つとなっている。
道徳や常識というのは所詮人間に作られた脆いものである。その窮屈な枠からはみ出すほどの情熱と自由さを持ち、文学をこよなく愛した彼女の作品は今後も読まれることだろう。ただ、寂聴さんが織りなす情緒豊かな物語を、今あるものより、少しでも多く読みたかったものだ。
記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
印刷ページの表示はログインが必要です。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
無料会員登録はこちら
ログインはこちら