「孤独になる勇気」を持てる人と持てない人の大差 偽りの結びつきによる和は保たなくていい

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本当に信頼できる関係に辿り着くために(写真:USSIE/PIXTA)
行きたくない飲み会に参加する。時間の無駄な会議にも出席する。上司のパワハラを見て見ぬ振りをする──。これは、全員が納得し、満足している共同体と言えるでしょうか。
自分が異を唱えれば、孤立してしまうと恐れる人もいるかもしれません。しかし、本当に信頼できる関係は、倫理的意義を見極め、知性的な判断を続けた先に結ぶことができるはずです。数の多さに流されず、孤独を恐れない勇気が必要なのです。
大ベストセラー『嫌われる勇気』の著者、岸見一郎氏の新刊『怒る勇気』より一部抜粋・再構成してお届けします。

知性的な怒りは伝播する

三木清は「流行」について、次のようにいっている。

「習慣が自然的なものであるのに対して、流行は知性的なものであるとさえ考えることができるであろう」(『人生論ノート』)

ここで三木がいう流行とは新しいことを学ぶことである。

例えば、パワハラに対して抗議の声を上げることは、「知性的な怒り」であるといえるだろう。

かつては職場で上司が部下を叱りつけることは当たり前のように行われていた。上司が部下の失敗を指摘して指導するのではなく、一方的に怒鳴ったり、土下座をさせたりしたのだ。

今はこのようなことが表沙汰になれば、パワハラだと社会的な非難を浴びることになるが、今でもパワハラは認めないとしても大きな声を出して指導することは必要だと思う人はいる。かつて自分が若かった時は上司から叱られたが、叱られることで伸びたという人はいる。ある相撲の力士が大関に昇進した時、私が今日あるのは竹刀で叩いて鍛えてくれた親方のおかげだといった。

しかし、その親方は知らないのだ。他の同期の力士はそのような指導を受けることで勇気をくじかれ、早々に現役を引退したことを。もともと力があったからこそ、多少叩かれ、ひどいことをいわれても力を伸ばすことができた。もしも力がなかったらたちまち相撲を続けることはできなくなっていただろう。反対に、適切な指導を受けていたら、もっと早くに力を発揮できただろう。

あるスポーツコーチは、選手に嫌われても言うべきことは言わなければならなかったとパワハラ以外の何物でもない暴言を吐いて指導していた。なぜそのような目に遭っても選手が抗議しなかったかというと、コーチに従って練習すればいい結果を出せるからである。だから、コーチのパワハラを甘んじて受け続けたのだ。

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