「孤独になる勇気」を持てる人と持てない人の大差 偽りの結びつきによる和は保たなくていい
しかし、表面上は皆が仲のよい共同体は、偽りの結びつきでしかない。時に、この結びつきが人為的に作り出されることもある。他の国家に対してであれ、ウイルスに対してであれ憎しみを煽ることで、国民の間に一体感を作り出す。地震などの災害が生じた後でも国民が一丸になって国難を乗り切らないといけないと勇ましく叫ぶ政治家がいる。
スポーツもまた同じ目的のために使われる。オリンピック憲章に反することを知らない政治家たちが国威発揚のためにオリンピックを利用する。
三木は『語られざる哲学』の中で、イエスの言葉を引いている。
「われ地に平和を投ぜんために来れりと思うな、平和にあらず、反って剣を投ぜんために来れり。それ我が来れるは人をその父より、娘をその母より、嫁をその姑嫜より分たんためなり」
これは『マタイによる福音書』から引かれたものである。「平和」ではなく「剣」を投じるため、親子、嫁姑を分かつため、この地にやってきたとは何と激しい言葉か。
子どもが何の疑問もなく親に従っていれば、表面的には何の問題もないよい親子に見える。しかし、子どもが親から、親が子どもからどう思われるかを気にして、言うべきことがあっても言えなければ、よい関係が築かれているように見えても、この親子は真に結びついているとはいえない。
反対に、自分の考えを率直に、親の気持ちを忖度せずに言えば、関係がギクシャクするかもしれない。それがイエスのいう「剣を投じる」ことであり、親と子どもとの結びつきを「分かつ」ということの意味である。
表面的には仲がよくても、結びつきが真のものになるためには、このような過程を経なければならない。
孤独を恐れ黙ってしまうと悪も蔓延る
親子関係だけでなく共同体の中にあって、たった1人でもそれは違うのではないかという人がいれば、その人によって剣を投ぜられた共同体は一体感、連帯感を失う。しかし、孤独を恐れ黙ってしまうと、職場の悪も社会の悪も蔓延ることになる。
このような時、社会化された感情に動かされているのである。しかし、その場の空気に左右されないことが必要である。
「孤独は感情でなく知性に属するのでなければならぬ」(『人生論ノート』)
先にも見たように、知性は感情のように煽ることはできない。なぜなら、知性は個人の人格に属するものだからである。
たとえ自分だけが周囲と考えを異にしても、社会化された感情に動かされることなく、自分の人格、知性、内面の独立を守り孤独に耐えなければならない。
「すべての人間の悪は孤独であることができないところから生じる」(前掲書)