「孤独になる勇気」を持てる人と持てない人の大差 偽りの結びつきによる和は保たなくていい

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真に怒ることについて、三木は次のようにいっている。

「孤独の何であるかを知っている者のみが真に怒ることを知っている」(前掲書)

孤独を恐れる人は、職場の不正があるのを知っていても、それを指摘しない。そうすることで職場で孤立することを恐れるからである。

上司の不正を暴こうとすれば、職場の和を乱すと批判されるかもしれない。不正を告発すれば誰からも支持されないかもしれない。孤独になることを恐れて何もしないで、自己保身に走り不正を見逃したり、不正に加担したりすれば孤独にはならないが、真に怒るために孤独にならなければならない。

このような意味の孤独は、先にも見たように、人の中にあって注目されたいのに注目されないという孤独感や、1人でいる時に感じる寂しさとは違う。多分に感傷的で、時に、三木の言葉を使うならば、「美的な誘惑」「味(あじわ)い」がある孤独ではない。三木がいうように「孤独のより高い倫理的意義に達することが問題であるのだ」(前掲書)。

孤独になる勇気が他者との結びつきを生む

真の怒りは、感情というよりも、むしろ知性に属するのである。たとえ自分を支持する人が誰1人おらず孤独になったとしても、そのように孤独になることに「倫理的意義」があると知的に理解できる人であれば孤独を恐れることはない。

職場においても、家族と同じく、真の結びつきができるためには、誰も何も言わなければ表面的には波風が立たないかもしれないが、そのような結びつきに一石が投ぜられなければならない。

自己保身に走り不正に目を瞑ることで最終的に昇進することを願っているような人は、自分のことにしか関心がない。そのような人は信頼を失うだろう。自己保身に走り不正に目を瞑ることを支持する人も中にはいるかもしれないが、すべての人が支持するとは思えない。

人はこのような状況の中で本当に孤独になるのだろうか。

共同体のことを考え、たとえ自分にとって不利益になることが予想されても言うべきことを言えること、するべきことができる人を、たとえ自分自身ではできなくても、あるいは、自分ではできないからこそ支持する人はいるはずである。

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そのような人がいると信頼することは容易なことではない。人と人とが結びついていることが「仲間」(Mitmenschen)であるということの意味だが、誰をも最初からそう思えるわけではない。

自分が上司や職場の不正を告発することを他の人が支持してくれないどころか、不正を告発しようとしていることを上司に告げ口する人がいるかもしれない。

そのように疑心暗鬼になっている人たちは他者を「敵」と見なしている。他者は誰も信じられない。そう思った人は孤独になる勇気を持てない。

それでも、この段階を経て、自分を支持する人がいるかもしれないと思った時、他者と結びつくのである。

岸見 一郎 哲学者(監修)
きしみ いちろう / Ichiro Kishimi

1956年、京都生まれ。哲学者。京都大学大学院文学研究科博士課程満期退学(西洋古代哲学史専攻)。専門の哲学(西洋古代哲学、特にプラトン哲学)と並行して、1989年からアドラー心理学を研究。著書に『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』(古賀史健と共著、ダイヤモンド社)、『幸福の哲学』(講談社)、『今ここを生きる勇気』(NHK出版)、『ほめるのをやめよう リーダーシップの誤解』(日経BP)など多数。

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