「あげる」という人生初のビッグな娯楽に目覚める 相手も私もモノも「八方よし」の幸せな関係

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私の愛したモノたちが、若くてピチピチした子たちのところへ貰われていって、そこで愛されてイキイキと暮らす様子が目に浮かんだ。

思い返せば「私の愛したモノ」などと言いながら、私の元にいた時はそれほどの活躍の場もなく、なんだかんだ言って死蔵されていたのである。だからこそこうしてフリーボックスに運ばれることとなったのだ。

「愛してるよ」と言いながら、ただ大奥に囲っておくだけで一度も会いに行かなかった私。本当の所を言えば、このような事態になるまで存在すらほぼ忘れていた私……ああ本当に申し訳ないことをした。

そんな可哀想なモノたちが、牢獄から解き放たれて新たな活躍の場を得たのである。きっと喜んでいるに違いない。幸せに違いない。私もうれしい。そしてもらってくれた人もうれしい。まさに「八方よし」とはこのことではないか!

ああ良いところにもらわれて行って本当によかったよかった……と、過去の悪行も忘れてじーんとするのであった。

ホトケの幸せってこういうこと?

しかし冷静に考えてみれば、私、完全に損しているのである。少なからぬお金を出して買ったものを、ほとんど使うこともないままタダで他人に譲る。お金、ということだけを考えれば丸損である。

でもそんなことはまったくどうでもよかった。

というか、こんなところに幸せがあったのかと呆然とする思いであった。

幸せとは、お金を稼いで好きなものを手に入れることーーミもフタもない言い方をすればずっとそう思ってきたのだ。でもそれだけじゃなかったんである。

私のやらかした失敗(これはイイと思って買ったのに全然使いこなすことができず置きっぱなし……)を、誰か(もらってくれた人)がカバーしてくれる、帳消しにしてくれることが心底ありがたかった。その「これでいいのだ」という穏やかで平和な気持ちは、間違いなく幸せな感情であった。

いやそれどころか、よくよく考えてみればそれは、何かを買った時の幸せをはるかに超えるビッグな幸せであるような気もするのである。

すべてが収まるべきところに収まって、モノも人もニコニコしていることの素晴らしさ。その状態を作ることに尽力し成功した自分が誇らしい。

そうだよもしかすると、ホトケの幸せってこういうもんなんじゃないだろうか? 下界が丸く収まっているのを見る幸せ。皆の幸せを見る幸せ。

そんな私の顔は、弥勒菩薩のような静かな美しい笑みをたたえているに違いない……。

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