大学中退し「食用バラ」で起業した女性の波乱万丈 新商品でピンチを乗り切り、年商1億円を超えた
家族にはすぐにバレて想像以上に怒られ、友達にも「なんで?」と何度も聞かれたが、後戻りはできない。
グーグルで検索してトップに表示された大阪の生産者に、「働かせてください」と連絡すると、すぐに許可を得た。
大阪に移り住んだ田中は、ゼロから食用バラの栽培を学んだ。驚いたのは、ビニールハウスのなかで無農薬栽培をしているにもかかわらず、天候に大きな影響を受けること。栽培時は、いつ頃にどれぐらいのバラを咲かせると計画して出荷の予定を立てるのだが、雨が続くと開花が遅れ、出荷できなくなることもあった。また、湿気が高いと虫や病気が出やすく、無農薬栽培のため、あっという間に被害が広がることも知った。「農業は楽じゃないな」と感じたものの、大阪での日々は新たな自分を発見する機会にもなった。
例えば、田中は「毎日コツコツとなにかを続けること」が苦にならない性格だったから、毎日似たような作業が続く農作業は「性に合ってるな」と感じた。なにより、「好きなバラに囲まれて1日が終わるなんて最高!」と思えたことがいちばんの収穫だった。
しかし、研修は思わぬ形で終わりを告げる。ある日、「ルックスもバラの強みだから、たくさんの人に見てほしい」と考えた田中がオーナーにインスタグラムへの投稿を提案すると、「農家はそんなチャラついたことはやらん!」と取りつくしまもなく拒否された。田中はオーナーがなぜ怒ったのか、インスタへの投稿がなぜダメなのかまったく理解できなかった。
それ以来、「新しいものを取り入れていく姿勢がないと、バラの可能性が閉ざされちゃう。ここにいたら世界中に食用バラのよさを伝えることができなくなる」と危機感が募った。
間もなくして、田中は決意する。
「ここを辞めて、自分でやろう」
3000万円を用意して深谷市で起業
1年で大阪から東京に戻った田中は、起業に向けて動き出した。まずは、農地探し。バラは「毎日の平均温度を足して1000度になると花が咲く」という性質がある。1輪でも多くバラを咲かせて収益力を高めるためには、温暖な気候が不可欠だ。
いくつか目星をつけたなかで、田中が選んだのは埼玉県の深谷市。切り花や鉢植えで全国で屈指の出荷量を誇り、「ほかのお花業界の人と交流もできるかな」という期待があった。酷暑の町として知られる熊谷市の隣りで同じくらい暑いこと、東京に出荷しやすい距離ということも好条件で、さらに新規就農者に手厚いサポートを提供していることも大きなポイントになった。
市役所や商工会議所に出向き、無農薬栽培の食用バラで起業することを話して「農地を探している」と相談すると、所有する農地を使っていない人を紹介してくれた。日本では耕作放棄地が全国的に問題になっているが、作物を育てず、ただきれいに保っている人たちも多い。なにも実りがない農地をきれいにするのは根気のいる作業だから、農地を有料で貸すことができるなら喜んで貸すという人もいる。話はトントン拍子でまとまった。
同時進行で、創業資金の確保にも動いた。こちらは、祖父母と銀行からの借り入れで、3000万円を用意することができた。これは主にビニールハウスの建設とバラの苗を仕入れるための資金、従業員の給料として使用した。これが農業とは別の事業だと、こうすんなりとはいかないかもしれない。農業は必要不可欠の「食」を担う国の基幹産業なので、行政の就農や補助金が充実しているだけでなく、金融機関と連携しているため、金融機関も各種の手続きに慣れている。だから、1年の研修を終えたばかりの22歳にも、スムーズに融資がおりたのだろう。
こうして2015年9月、起業した。
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