孤独に「負ける人」と「楽しめる人」何が違うのか 孤独は捉え方によって感じ方が変わってくる
人は、わかり合えないからおもしろい。
他人をすべてわかることはできないし、同様に、自分をすべてわかってもらうこともできないともいえます。会社のなかで孤立したとき、気が合っていた友人と意見が食いちがったとき、恋人が自分の期待に反する行動をとったとき、親が自分のことを認めてくれないとき……寂しいものです。
「どうして、わかってくれないんだろう」と思います。そして、「話せばわかってもらえる」「わかり合えるはずだ」という信念のもと、無理に気持ちを一致させようとがんばって、これが、うまくいけばいいのですが、気持ちが平行線だとさらなる孤独が待っています。
でも、「相手も自分と同じように考えてくれるだろう」と思うのは、大まちがい。それぞれ、ちがう人間だから、考え方がちがうのは当然のこと。それぞれ、別のDNAを受け継ぎ、性質もちがえば、育った環境もちがう。受けた教育も経験もちがう、出会った人もちがう……。
そんな異質な条件下で、考えがちがったり、理解できなかったりすることが生まれてくるのは、ごく自然な流れです。相手を、自分とは同じでない"別の人"として尊重しようとすると、理解や賛成はできなくても、その考えを認め、受け入れることができます。
孤独でも寂しくない人の「捉え方」
「人はわかり合えるはずだ」と思えば、わかり合えないことが寂しく感じられますが、「わかり合えないこともある」と考えていれば、わかり合っていくことがうれしいもの。「人間はわからないから、おもしろい」「すべてはわからないけれど、少しでもわかりたい」と近づいていく姿勢が、お互いの距離を埋めていくのでしょう。
そもそも人間とは孤独なものなのです。この世に生を享(う)けてから息を引き取るまで、それぞれひとりの人生を歩いています。家族や友人、恋人、仕事仲間など、ほかの人と寄り添うことはあっても、決して同じ線上になることはありません。
それに、自分の考えにしたがってのびのびと生きようとすると、必ず、衝突や軋轢が生じます。そんなときに、孤独を受け入れて、「人それぞれ」「わからないこともある」とあっさりちがいを認めることが、孤独から寂しさを生まない知恵だと思うのです。
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