二面性の男「徳川慶喜」を孝明天皇が重用した原点 激動の幕末において2人を結びつけていたもの
一方、あくまでも攘夷の立場をとったのが慶喜である。慶喜は開国派に会議の主導権を握らせなかった。そればかりか、中川宮邸で宴席が開かれたときには、慶喜は開国派の3人を名指しして「天下の大愚物」として喝破(「やたら敵作る『徳川慶喜』期待を何度も裏切る真意」参照)。さらに、薩摩藩と密かに通じていた、中川宮をこう責め立てている。
「宮、あなた一人が薩摩を信用するからこうして騙され、誤解が生まれ問題が起きてしまう」
こんな大立ち回りをしながらも、慶喜の本音は開国派だったのだから、驚きである。
自身の本音とは異なる孝明天皇の意向に沿ったワケ
慶喜は父が水戸藩藩主の徳川斉昭で、尊王攘夷派のシンボル的存在だった。そのため、迂闊に自身の考えを明かすことはなかったものの、慶喜は明確な開国思想を早い時期から持っていた。
にもかかわらず、この国の行き先を決める大一番で、慶喜が孝明天皇の意向に沿った理由は、2つある。1つは、薩摩藩が政治を主導するのが許せなかったということ。慶喜は邸に帰ると、薩摩藩のくわだてを台無しにしたことを、侍臣たちに感情もあらわに報告している。
「今日は愉快、愉快。大技計をぶちこわしたのは痛快の至り」
もう1つの理由としては、慶喜は父の斉昭が激しい尊王攘夷派だっただけではなく、母の吉子は、有栖川宮織仁親王の娘だった。つまり、徳川家と朝廷の両方の血が流れていたのである。
その生まれから、否応なく、幕府の朝廷のどちらに味方するのかの争いに巻き込まれる運命にあったといってよいだろう。そんな事態を見越してか、父の斉昭は慶喜に常々こう伝えていた。
「たとえこれから幕府に背くことがあっても、絶対に朝廷に背いてはならない」(『昔夢会筆記』)
慶喜はまさにその教えを守り、参予会議でも朝廷に背くことはなかった。会議をぶち壊すと、慶喜は後見職を辞任して、元治元(1864)年3月に禁裏御守衛総督に就任する。
禁裏御守衛総督とは、朝廷を守る役割のこと。慶喜は徳川家の有力者でありながら、孝明天皇に接近し、2人は密接な関係を築いていくのであった。
(第5回つづく)
【参考文献】
宮内省先帝御事蹟取調掛編『孝明天皇紀』(平安神宮)
日本史籍協会編『一条忠香日記抄』(東京大学出版会)
渋沢栄一『徳川慶喜公伝全4巻』(東洋文庫)
福地重孝『孝明天皇』(秋田書店)
家近良樹『幕末・維新の新視点 孝明天皇と「一会桑」』(文春新書)
藤田覚『幕末の天皇』(講談社学術文庫)
家近良樹『幕末の朝廷―若き孝明帝と鷹司関白』(中央公論新社)
家近良樹『幕末維新の個性①徳川慶喜』(吉川弘文館)
松浦玲『徳川慶喜将軍家の明治維新増補版』(中公新書)
野口武彦『慶喜のカリスマ』(講談社)
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