二面性の男「徳川慶喜」を孝明天皇が重用した原点 激動の幕末において2人を結びつけていたもの

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これでもまだ安心できないと、孝明天皇は念押しも忘れなかった。幕府が朝廷に提出した、攘夷についての回答を諸大名に通知させるという徹底ぶりだ。勢いづいた孝明天皇は、京都所司代やその家臣の人選に口出しするなど、幕府の人事にまで介入。朝廷の権威を後ろ盾にしたかった幕府は、孝明天皇の要望を大人しく受け入れざるをえなかった。

だが、幕府の衰退により、孝明天皇が意図しない方向に政局は転がっていく。薩摩や長州両藩が台頭し、朝廷の公家も両藩の軍事力を自らのバックにつけようと動き始めたのである。

最初に動いたのは長州藩で、三条実美、姉小路公知らが尊攘派の公卿らと結びつき、発言力を高めていく。孝明天皇はわざわざこんな表明をして、バランスをとろうとしたくらいである。

「いささかも徳川幕府を除外する考えは毛頭ももっていない」

長州藩は、天皇の指揮のもと外国と戦わんとして、過激な尊王攘夷を実行したが、孝明天皇からすれば、迷惑でしかなかった。孝明天皇が目指したのは、あくまでも、幕府と協調したうえでの攘夷である。長州藩と尊攘派の公卿らが朝廷を牛耳ろうとすると、孝明天皇は薩摩藩の力を借りて排除する。これを「八月十八日の政変」と呼ぶ。

「朝議参予」のメンバーに選ばれた慶喜

だが、尊王攘夷派を一掃しただけでは、政治的混乱を収めることはできない。孝明天皇は組織再編を行い、朝廷の権限を強化しようとした。有志の大名の力を結集させるべく「朝議参予」を新設。そのメンバーとして任命されたのが、薩摩藩の島津久光や松平慶永のほか、山内容堂(土佐藩前藩主)、伊達宗城(宇和島藩前藩主)、松平容保(会津藩主、京都守護職)、そして徳川慶喜である。

「すべて朕の座前においての評決に相成る」

すべて私の評決のもとに定まる――。文久3(1863)年11月、孝明天皇が島津久光にあてた密勅には幕末の政治を担う固い決意が綴られていた。

だが、朝廷が上洛を促して、文久3年末から参予会議が開かれるものの、孝明天皇が思ったようにはまったく進まなかった。問題となった議題は、朝廷から幕府に申し入れた、次の事項である。

「日米修好通商条約に基づいて開いた横浜港を閉じてほしい」

つまり、条約に従って開国の状態を続けるか、それとも、条約を破棄して鎖国に踏みきるかという議論だ。開国派である久光、宗城、慶永は、いったん開けた横浜港を、再び閉じるのは不可能だという立場をとった。

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