二面性の男「徳川慶喜」を孝明天皇が重用した原点 激動の幕末において2人を結びつけていたもの

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一方、江戸では徳川慶喜も転機を迎えていた。井伊が暗殺されてから約半年後に謹慎処分が解かれた慶喜。将軍の座を争った家茂の将軍後見職の座に就くことになる。

その裏には薩摩藩の力が働いていた。「慶喜を将軍に」と暗躍したものの叶わなかった薩摩藩が井伊の死後、公卿の大原重徳を通して、後見職に慶喜をねじこんできたのだ。同時に、慶喜と同じく謹慎が明けた福井藩藩主の松平慶永を政事総裁職に就任させている。慶喜と慶永を政権の中枢に据えることで、薩摩藩は幕政への影響力を持とうとしていたのだ。

幕府の求心力の低下は孝明天皇や朝廷に勢いをつけさせただけではなく、薩摩と長州といったこれまで政治的影響力を持ちえなかった外様藩の台頭をも促すこととなった。慶喜からすれば、後見職に就いたものの、ただ責任だけを押し付けられることにうんざりし、のちにこう振り返っている。

「だいたいあの節の将軍後見職・政事総裁職というものは、ただの大老でもなければ何でもない」

すでに幕府を見限っており、さりとて、成り上がりの薩摩藩と手を組むつもりも毛頭なかった慶喜。幕府でも有力藩でもなく、朝廷、つまり孝明天皇を後ろ盾にして、初めて自分の居場所ならぬ「生き場所」を見つけることとなる。

幕府との駆け引きに成功した孝明天皇

「7、8年ないしは10年後には必ず通商条約を拒絶すること」

「公武合体」を持ちかけられると、孝明天皇は、妹の和宮を将軍家茂に降嫁することを認める交換条件として、幕府にそんな約束をさせている。このとき、井伊直弼に代わり、幕政の中心にいたのは、老中首座の久世広周と老中の安藤信正だった。

この孝明天皇との約束が、のちに幕府を苦しめることになるのだから、軽率な約束をしたものである。だが、この約束に至るまでには、孝明天皇による駆け引きがあった。

実は、孝明天皇は和宮降嫁にあたって当初、「ペリー来航以前の対外政策に戻すこと」を条件に出していた。もちろん孝明天皇もそれが難しいことくらいわかっている。だが、これまで問題視してこなかった和親条約すらも認めないと強硬な姿勢を打ち出すことで、幕府のほうから「期限付きで通商条約を拒絶する」という回答を引き出すことに成功したのである。

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