「死ぬまで低賃金」を嘆く56歳元専業主婦の貧困 美容師の仕事は時給1000円にしかならなかった

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いったいなにがあったのか、聞いていく。33年前、23歳のときに商店経営する夫と結婚。夫は美容師時代の客で、見初められ、親戚同士が何度も話し合って結婚が決まった。当時、付き合っていた恋人はいたが、家の方針に従って別れた。小学校の頃から夢だった美容師になったが、寿退社した。専業主婦があたりまえの時代だった。

「家のしがらみがあって、自分の意志だけでは結婚は難しい時代でした。嫁入り道具もすごかったし、近所の顔見せもあった。嫁入り道具はタンスとか長持とか。父親が生活に必要なもの、高級品を揃えてそれを持って家をだされる。それで向こうの家にはいる。そういう時代でした」

嫁ぎ先は、雑貨店。家族経営で朝8時開店、夜20時閉店の12時間営業。家事をすべてと、店の手伝いをした。

「義母がいて、まずお母さんがお金を握っている。3人の生活で自分の収入はなくなりました。お客さんは減るばかりでした。しばらくして娘が生まれて、家事と店の手伝いに育児もすることに。自分の時間は完全になくなりました」

友達とは疎遠になり、収入もなくなった

昭和時代は結婚して嫁いだら、寿退社して夫の家にはいり、夫を支えながら子どもを生んで育児し、それが終わったら義理の両親の介護をする。そんな人生が一般的だった。雅美さんは真面目に妻をして、自由な時間は一切なくなった。友だちとは疎遠になり、収入もなくなった。

「結婚してからはすごく忙しくて時間に追われているのに、お金がない。美容師時代の貯金を切り崩して、あとは実家の母親からこっそりお小遣いをもらってました。それで最低限の洋服を買ったりしてました」

店の売り上げは悪化の一途。夫は必死になんとかしようとしたが、好転することはなかった。そして大店立地法が施行され、車移動圏内にショッピングモールができた。お客はまったく来なくなった。

「ずっと赤字。信用金庫から親戚まで、いろんなところから借金して最低限の生活をした。食費は私のパート代ってなって、娘が小学生になってからパートで美容師をしました。地方なので時給1000円、頑張って働いても月10万円くらいです」

37歳のとき、店は廃業。シャッターを閉めてから、借金まみれの現実と向かい合うようになった。

「借金の金額はわからないですけど、数千万円だと思います。夫から離婚届を渡されて、借金があるから離婚してくれって。形式上、離婚しました。夫は廃業した後、朝から晩までずっと仕事です。朝は牛乳配達して、昼間は大手から受託する配線の仕事、夜は清掃みたいな」

子どもは中学生になった。雅美さんは家族の生活のためにシフトを増やし、自分も限界まで働いた。

「美容師の仕事は、どうやっても時給1000円にしかなりません。お金が必要なのに成果のクオリティーを上げても、なにをしても収入にならない。美容師ってなんなんだろうって、目が覚めたというか。どうして、こんな貧しい生活しかできない仕事を夢にしていたんだろうって」

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