実体のない「不安」が恐怖よりもずっと厄介な理由 「嫌われる勇気」の著者が教える恐怖との違い
オーストリアの精神科医アドラーは不安の原因ではなく、その目的が何かを考えます。アドラーは、仕事や対人関係のように生きていくにあたって避けることができない課題を「人生の課題」といい、不安はこの人生の課題から逃がれるために作り出される感情であるといいます。言い換えると、不安の目的は人生の課題から逃れることです。
先にキルケゴールが恐怖と不安を区別しているのを見ましたが、不安には対象がありません。なぜ不安になったのかと問われた人はその原因を答えるでしょうが、恐怖とは違って本来不安には対象がないのですから、持ち出される原因は何でもいいのです。不安がこのように何かに引き起こされるものでなければ、何かの出来事に遭ったからとか、何かを経験したから不安になったというふうに因果関係で見ることはできません。
不安があまりに強ければ生きることは困難になります。病気や災害というようなことでなくても、対人関係に疲れてしまって、人との関わりを避けようと思う人がいます。これがまさに不安の目的です。アドラーは次のようにいっています。
「人がひとたび人生の困難から逃げ出す見方を獲得すれば、この見方は不安がつけ加わることによって強化され、たしかなものになる」(『性格の心理学』)
人生の課題に何らかの仕方で一度もつまずかなかった人はいないでしょう。仕事や学生の勉強では必ず結果が出ます。さらに、結果が出たら評価されますが、自分が望む、あるいは他者から期待されていると思う結果を出せないと思って、課題に取り組まない人がいます。課題に取り組まなければ結果は出ない、したがって評価されないからです。
そもそも、評価は結果についてのもので、人格についてのものではありません。しかし、自分の価値が低く評価されるくらいなら、仕事の課題から逃れようと考えてしまうのです。最初からよい結果は出せません。一度課題から逃げることを覚えたら、以後も逃げるようになります。その際、不安になれば、不安を課題から逃げるための口実にするようになります。人生の困難から逃げ出す見方が「不安がつけ加わることによって強化され、たしかなものになる」というのは、こういう意味です。
対人関係を回避するための不安
対人関係も同様に困難な課題です。なぜなら、人と関われば何らかの仕方で摩擦が生じるからです。人と関われば裏切られたり、憎まれたり、傷つくような経験を避けることはできません。自分が傷つくのでなくても、何気なく発した言葉が相手をひどく怒らせるということもあるでしょう。人と関わって嫌な思いをしたりトラブルに巻き込まれたりするくらいなら、最初から対人関係を避けようとする人がいても不思議ではありません。
アドラーは「あらゆる悩みは対人関係の悩みである」といっています。カウンセリングのテーマはすべて対人関係であるといっていいくらいです。対人関係の課題を回避しようと思う時には、そうするための理由が必要です。もちろん、何の理由もなく課題を回避することはできますが、理由があった方がまわりの人も本人も納得できます。
例えば、学校に行きたくないと思ったらただ休めばいいのですが、親も教師も理由もないのに休むことを許しません。必ず、「なぜ休むのか?」とたずねます。自分でも理由がなければ休んではいけないと考える子どもは多いでしょう。そこで、子どもは「お腹が痛い」とか「頭が痛い」と親にいいます。もし本当に痛みがあれば、親は「頭が痛いくらいで学校を休んではいけない」とはいえないでしょう。子どもはそのことを知っているので、親にたずねられる前から「今日は頭が痛いから学校に行かない」というのです。