実体のない「不安」が恐怖よりもずっと厄介な理由 「嫌われる勇気」の著者が教える恐怖との違い
これは自分への言い訳になります。「本当は学校に行きたいのに、こんな痛みがあるから行きたくても行けない」。そう思えたら、身体に痛みがあっても心は痛みません。親は子どもを学校に行かせたいと思っていても、学校に連絡をして子どもを休ませます。教師は当然理由をたずねるでしょう。この時、理由がないと親も困ります。腹痛や頭痛があるので休ませるといえば、教師は納得します。晴れて休めることになった途端、子どもの症状はなくなるか軽減します。
一度逃げると不安は強化される
アドラーは、「Aだから(あるいは、Aでないので)Bできない」という論理を日常生活の中で多用することを「劣等コンプレックス」といいます。このAとして自分も他人もそんな理由があれば仕方ないと思うような理由を持ち出すのです。
今問題にしている不安もAとして持ち出されます。不安は人生の課題から逃れるための理由になるのです。ただし、腹痛や頭痛ほどには理解されないかもしれません。「今日は不安なので学校に行かない」と子どもがいっても、多くの親は理解できないでしょう。
不安は基本的には未来についての感情です。アドラーは、一度、仕事や対人関係で「人生の困難」を経験したので、また同じことを経験するのではないかと思って不安になるとは考えません。あれやこれやの出来事を経験したことが不安になる原因だとは考えないということです。アドラーは不安について次のように考えています。先に引いた言葉をもう一度引用します。
「人がひとたび人生の困難から逃げ出す見方を獲得すれば、この見方は不安がつけ加わることによって強化され、たしかなものになる」
「人生の困難から逃げ出す」というのは人生の課題が困難だと考えてそこから逃げ出すということです。人生の困難から逃げ出そうと考えている人は不安になることでその決心を「強化」する。つまり不安がなくても、もともと人生の課題から逃げると決めているのですが、こんなに不安であれば逃げ出すしかないと思えるのです。人生の困難から逃げ出そうと考えることが先にあって、これを正当化するために不安という感情を使うということです。
仕事も対人関係もたしかに「困難」な人生の課題ですが、だからといって、誰もがそこから「逃げ出す」わけではありませんし、実際、逃げ出すことはできません。しかし、対人関係で何か困難な経験をした人はまた同じことを経験したくないと思って対人関係を避けようとします。そして、そのような人が対人関係を避ける理由として「不安」を付け加えるのです。
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