こんなことになるはずではなかった。銭湯には前の家に住んでいた頃からよく行っていたので、銭湯のマナーはちゃんと体得していた。掛け湯をして湯船に入る、タオルを湯船につけない、椅子や桶は使用後は洗ってきちんと片付ける。体をよく拭いてから脱衣所に上がる……などなど。
こちとら初心者じゃないんである。こんな私なら、見知らぬ人の中でも堂々と大きな風呂を楽しんで暮らしていけるはずだ。そうだよせこい自宅の風呂なんぞ何の未練があるものか……などと自信満々であった。
常連さんにいきなり注意される
ところが。いきなりつまづいたのだ。
わが近所の銭湯は住宅街のど真ん中にあり、客は決して多くなく、近所の常連ばかりである。ということも最初は知らず、「私、銭湯慣れてるんで」てな感じで堂々と入った。
だがどうも具合が良くない。なんだかちょっと浮いている気がする。こりゃどうも閉鎖的な銭湯ダネ……などと思いつつ湯船に浸かっていると、いきなり見知らぬ女性がキッとこちらを見据え、「やだ、あなたお風呂の中で顔洗わないで! 汚いじゃない!」とピシャリと言ったのである。
最初、何を言われているのかわからなかった。私はなにも、湯船の中で石鹸など使って顔を洗ったわけではない。ただ猫が手でくるり顔と撫ぜるように、顔をくるりと手で撫ぜただけである。それがなぜ汚いのか?
混乱しならがとりあえず「すみません」と謝って、気まずい空気にいたたまれず早々に風呂から上がり、ドキドキしながら帰宅した。で、何が悪かったのかをネットで検索したところ、確かに「顔を洗うのはマナー違反」という記事が出てきたが、それがなぜダメなのかとなるとどうもよくわからない。
化粧をしたまま湯に入ったと思われたのかもしれないが、そもそも化粧をしていないし、湯船に入る前に髪も体も洗っているのである。それにいくらマナー違反だとしても、お互い初対面。「言い方」というものがあるではないか。
だが困ったことに、いまや「街がわが家」なのであり、銭湯がわが風呂である。そして見たところ、彼女はかなりの常連さんである。ということは、私は「風呂に入る」という、人として最低限の生活を成り立たせるためには否でも応でも彼女と共存せねばならないのだ。
いやーこんなところにまさかの障壁! これをピンチと言わずしてなんと言おう! 豪邸住まいなどとアホな脳内思いつきに喜んでいる場合じゃなかったのだ。
仕方なく、件の女性に遭遇せぬよう時間をずらして出かけることにした。ところが世の中とは恐ろしいもので、会いたくないと思えば思うほど、どう時間を変えても絶対に彼女がいるのである。
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