奈良時代の日本「政治的責任」の概念があった証拠 歴史上の人物たちの言葉から今の政治を考える
黒船のペリーが上陸前に誓った使命
ペリー(1794‐1858/アメリカの軍人、東インド艦隊司令長官)
古代人ならば、天空に起ったこの注目すべき現象を、彼らが計画した事業によい結果を約束する前兆だと解釈しただろう。そして、われわれの場合は、特異で半ば野蛮な一国民を文明諸国民の家族の中に組み入れようというわれわれの当面の試みが、流血の惨事なしに成功できるようにと神に祈るものである。<『ペリー日本遠征日記』(金井圓訳、雄松堂出版、1985年)>
1853年7月8日(嘉永6年6月3日)、アメリカ大統領フィルモアの親書を携えたマシュー・ペリーを乗せた蒸気船が、浦賀沖に投錨した。その日の夜半、夜空に流星が見えた。
古代人ではないペリーは、これから自分に託された責任ある使命がうまくいくよう神に祈ったという。その使命とは、日本を「流血の惨事なしに」開国させ、文明国の仲間入りをさせることだった。敗戦直後に同じ神奈川県の厚木飛行場に降り立ったマッカーサーと比較すると興味深い。
カント(1724‐1804/プロイセン王国時代のドイツの哲学者)
…法の概念に適った統治形式は、代議制だけである。共和的な統治形式が機能するのは、代議制においてだけであり、代議制なしではその国家体制がどのようなものでも、専制的で暴力的なものとなるのである。古代の共和国はこのことを知らなかったので、つねに悪しき専制へと堕落せざるをえなかったのである。<「永遠平和のために」(『永遠平和のために/啓蒙とは何か 他3編』中山元訳、光文社古典新訳文庫、2006年所収)>
カントにとって、共和制こそ永遠平和への期待にそった体制であり、それは専制と対立する。前者では行政権と立法権が分離されるが、後者では立法者が統治者になる。古代の直接民主制はその典型であり、それは必ず専制となる。共和制は民主制と同じでないどころか、代議制という観点に立てば民主制より君主制と両立しやすい体制なのだ。カントの定義に従えば、立法権と行政権が分離された戦後日本の代議制民主主義は、民主制ではなく共和制ということになるのだろうか。
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