奈良時代の日本「政治的責任」の概念があった証拠 歴史上の人物たちの言葉から今の政治を考える

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7月10日
平野義太郎(ひらの・よしたろう/1897‐1980/法学者、社会主義理論家)

アジアにおける植民地態勢打破の先駆者はわが日本であり、アングロサクソンの世界旧秩序打開の創始者も亦わが日本であつた。東洋におけるこのわが日本の発展興隆そのことが、直ちにアングロサクソンのアジア支配から隷属アジアを解放し、アジア人の手で東洋における平和秩序を建設し、大東亜諸民族における共存共栄の生活圏を設定せんとしつつある。<『大アジア主義の歴史的基礎』(河出書房、1945年)>

平野義太郎は、1936(昭和11)年7月10日に検挙されて留置中に転向し、「大東亜共栄圏」のイデオローグとなった。「大東亜戦争による大東亜建設は、この歴史的な運動に外ならぬ」としてこの戦争を正当化し、日本を中心とした共栄圏の建設を臆面もなく唱えた直後、日本は敗北する。すると平野は再び転向してこんどは民主主義者となり、変節漢として非難された。だが太平洋戦争がアジアの植民地を解放したという歴史観は、戦後もなお自民党を中心とする右派のなかに生き続けることになる。

1980年、国会は完全に男たちの世界だった

7月11日
中山千夏(なかやま・ちなつ/1948‐ /俳優、参議院議員)

後に〝研究〞してわかったのだが、演説は漢語の坩堝である。女はやまとことばと恋愛、男は漢文と政治、という平安時代以来の伝統が、まだ生きているらしい。しかも、「トウ(等)」「チンセイカ(鎮静化)」「ヨウテイ(要諦)」「キョウアイ(狭隘)」「ショケンアン(諸懸案)」「イクセイ(育成)」などなど、聞き言葉としては耳に馴染まないものがゴロゴロある。<『国会という所』(岩波新書、1986年)>

1977(昭和52)年に中山千夏が代表となった革新自由連合は、7月10日の参院選の開票結果が判明した11日、初の当選者を出した。中山自身も1880年6月の参院選で当選し、国会議員となった。初めて入った国会というところは完全に男たちの世界だった。所信表明などの演説もそうで、話し言葉として作られていない演説は「台本」を読むことで初めて理解できたという。「所信がおしなべて退屈なのは、大臣たちが自分の言葉を用いていないからだ」。

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