奈良時代の日本「政治的責任」の概念があった証拠 歴史上の人物たちの言葉から今の政治を考える
聖武天皇(しょうむてんのう/大宝元(701)‐天平勝宝8(756)/奈良時代の天皇)
頃者(このころ)、天頻(しきり)に異(あやしび)を見(あらわ)し、地(ない)数(しばしば)震動(ふ)る。良(まこと)に朕(わ)が訓導(おしえ)の明らかならぬに由りて、民多く罪に入れり。責めは予(われ)一人に在り。兆庶(もろもろ)に関(あず)かるに非ず。<『新日本古典文学大系13 続日本紀二』(岩波書店、1990年)>
原文は漢文。天平6(734)年4月に起こった大地震に際して、聖武天皇は同年4月21日に続いて7月12日にも詔を出している。頻発する天変地異は自らの徳の足らなさに由来するのであり、自分一人が責めを負わなければならないとしている。一般に責任という語は明治になってresponsibilityの訳語として新たに創り出されたとされているが、この「責め」は政治的責任に相当する概念が奈良時代の日本にすでにあったことを示している。
秩父宮雍仁(ちちぶのみや・やすひと/1902‐1953/昭和天皇の弟、陸軍軍人)
日本の実情の即しない米国制度の直輸入も大いに批判されなければならない。六、三制の教育制度にしても、自治体の警察制度にしてもあせり過ぎてゐる様に感ぜられる。勿論日本の当局者の弱腰と云ふか、無責任と云ふか日本の実相を理解せしめる努力の足らないこともあるだらうが占領軍当局者のやり方は中央部の机上計画を矢鱈に強行する傾向があるのではないかと思はれないでもない。<「占領政策の批判」(『中央公論』1996年11月号所収)>
1949(昭和24)年7月、結核で療養生活を続けていた秩父宮が、アメリカ主導の占領政策を公然と批判した。少なくとも表向きには逆らわなかった昭和天皇とは対照的だった。GHQは内容的にこれと重なる秩父宮へのインタビューを英訳した文章を入手した。7月13日、宮内庁長官の田島道治がマッカーサーの副官に呼び出され、この文章を天皇に持ってゆくよう命じられた。天皇は占領政策を公然と批判しないよう秩父宮に忠告している。
緒方貞子が歴史から学んだ教訓
緒方貞子(おがた・さだこ/1927‐2019/国際政治学者、国連難民高等弁務官)
ナショナリストの発言の方が威勢がいいし、人間の感情に強く訴えかける。それに行動が伴うことも多かった。どの時代でも、威勢のいいことを言う人はいるものです。
でも威勢がよすぎるのは危険な兆候です。いまの日本の政治家の中にもそういう傾向は見て取れるのではないですか。私にはそう思われます。<野林健、納家政嗣編『聞き書 緒方貞子回顧録』(岩波現代文庫、2020年)>
1969(昭和44)年7月14日から18日まで、山梨県の河口湖畔に日米の研究者が集まり、日米関係史に関する会議が開かれた。この会議で緒方貞子は、日本の自由主義的な民間団体の活躍について報告したが、軍部が台頭するとそれらは衰退した。「持たざる国家」として現状を変えるのは正当だというナショナリストの主張に抵抗できなかったからだ。たとえリベラリストの発言に迫力がなくても、ナショナリストの威勢のよさに眩惑されてはならないというのが、緒方が歴史から学んだ教訓だった。
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