「リベラル」こそ「ナショナリスト」であるべき理由 日本に「民主主義」を取り戻すために必要なこと

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しかるに、現代の「リベラリズム」は、世界のあらゆる国民や民族にとって、まさにこの最悪の思想になってしまっているのである。

「ナショナリズム」は「民主主義」の前提条件

第2に、「リベラル」がめざす「平等な市民による民主主義の政治」は、「ナショナリズム」があってこそ、はじめて可能となる。

これは、近年の政治哲学でも主流になりつつある考え方であり、「リベラル・ナショナリズム」と呼ばれることもある。たとえば、ハゾニーも参照しているイギリスの政治哲学者デイヴィッド・ミラーの理論がわかりやすい(邦訳『ナショナリティについて』風行社、2007年〔原著は1995年〕)。

民主主義の政治を、前出の中野剛志氏にならって、「みんなで話し合って物事を決める政治」と捉えてみよう。

中野氏も指摘するように、ここではまず、「みんな」という人間集団が存在しなければ、そもそも話し合いも始まらない。つまり、民主主義の政治には、それが問題にしている事柄について、それをまさに「われわれの」問題であると考えることのできる参加者が必要なのだ。

民主主義は、そもそもこの「われわれ」(「みんな」)という一定の境界を持った人間集団と、自分はその集団の一員であるという帰属意識とを、前提にしなければ成り立たない。この「われわれ」が、まさに「ネイション(国民)」にほかならない。

さらに、「話し合って」というところも重要だ。

対等な「話し合い」、すなわち「公共的討論」が可能であるためには、参加者が言語を共有していなければならない。なぜなら、もし、「話し合い」のために複数の言語を操る能力が必要となれば、それに参加できるのは、経済的・文化的に恵まれてハイレベルな教育を受けることができたエリートだけになってしまうからである。

したがって、大衆が幅広く平等に参加できる民主主義が成り立つためには、「母語(母国語)」を共有した「国民」が必要なのだ。

当然、この「われわれ」という同胞意識をもち、「母国語」を共有した「国民」という人間集団は、国家が主として学校教育を通じて人為的に「創り出す」ものである。

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