「リベラル」こそ「ナショナリスト」であるべき理由 日本に「民主主義」を取り戻すために必要なこと

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ここでは、当然、「日本の政治は日本の国民が決める」という、民主主義の最も基本的な原則もまた、否定されている。日本という国家の行く末と、そこに住まう日本国民の生活が、IOCという「グローバル」な組織に売り渡されているのだ。

恐るべきことと言わねばならない。「グローバリズム」は、ついにここまで来たのである。それでもまだ、私たちは「グローバリズム」についていくのだろうか?

保守=グローバリズム/リベラル=ナショナリズム?

ここで、読者にはよくよく注意していただきたいことがある。

「保守」を自認する政党やその支持者たちが、「IOCがやれと言っているのだからやるしかない」と、みずから国家と国民の主権を放棄している。他方、「リベラル」を自認する政党やその支持者たちのほうが、「国民の声を聞け」と叫んでいるのである。

これはつまり、「保守」のほうが、グローバリズムの立場からナショナリズムを放棄し、「リベラル」のほうが、ナショナリズムの立場からグローバリズムに対抗せよと主張していることになるのだ。

もちろん、当の「リベラル」の諸氏自身には、自分が「ナショナリスト」であるなどという自覚はないであろう。「ナショナリズム」は、とりわけわが国の戦後の思想界にあっては、非合理で非寛容な、最も「非リベラル」なイデオロギーとみなされてきたからである。

しかし、そういうステレオタイプな固定観念をできるだけ取り払って、普通に論理的に考えてみてほしい。

「ナショナリズム」とは、「国民(ネイション)主義」である。世界秩序が「国民(ネイション)」という人間集団を基本単位として構想されるべきであり、各国の政治はその国の「国民の意思」に基づいて営まれるべきである、と考えるのが「ナショナリズム」である。

したがって、「ナショナリズム」は、そのそもそもの意味から言って、「民主主義」ときわめて親和的な思想なのだ。「ナショナリズム」のない「民主主義」はありえないのである。

「政府は国民の声に耳を傾けるべきだ」と主張するとき、われわれは、そもそも「国民」という一定の境界をもった人間集団の存在を前提とし、一国の政治はその「国民の意思」に基づいて営まれるべきだ、と主張している。

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