アメリカに2つの「ノマドランド」が存在する理由 IT成功者と季節労働者の間に流れる深く長い河
だが、それにしては、その自立独立は、画面全編に漂うどんよりした灰色に塗りこめられ、主人公がそうであるように、疲れ切って淡々と日々をやり過ごしてゆくだけにみえる。とても19世紀にあったフロンティア精神の自立の精神と同等にみることはできないし、また、70年代のカウンターカルチャーの中で生まれたヒッピー型の「ノマド」などとはまったく対照的である。
アメリカの自由や民主主義が行き着いた姿
これが今日のアメリカのひとつの姿なのであろう。リーマンショックが引き金になったのだが、ここには政治も経済も直接の主題にはならない。主人公は、アメリカの政治と経済が陥った出口の見えない混沌たる状況をすべて飲み込んで、絶望の際で生をつないでいくだけだ。
アメリカの自由や民主主義が行き着いた姿がここにあるのだが、そうだとすれば、「アメリカ」という国の理想がすっかり反転して、しかも崩壊の一歩手前のぎりぎりの有様をわれわれはみているのかもしれない。
というのも、私はこの映画をみながら、つい、アメリカ初期の入植者や開拓者の現実も、もしかしたらかくのごときものであったのかもしれない、という気になったからである。彼らもまた果てしない荒野で仲間とともに、日々の生を紡ぎだしていたのかもしれない。アメリカとはもともと「ノマドランド」だったのではなかろうか。
しかし、決定的な違いもある。初期の入植者や開拓者たちにとっては、将来への希望があった。また、宗教的な支えもあった。それはアメリカの「始まり」であった。だが、このキャンピングカーの高齢者たちは、人生の黄昏にいる。先への希望はない。宗教の支えもない。アメリカの「終わり」にあって、かろうじて生きながらえている、という感覚なのである。
われわれはつい、この映画にはまったく描かれていない「もうひとつのアメリカ」をみてしまう。それは、別の「ノマド」であるIT成功者や世界中を飛びまわるCEO経営者や高学歴専門家たちであり、また、バイデン大統領がいう、専制主義との対立において自由・民主主義を守るアメリカである。だがその奥深く、自由・民主主義・経済成長を掲げてきたアメリカ文明の崩壊が静かに進んでいることから、目を背けるべきではないであろう。
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