船橋:山本五十六は航空力を重視し、パールハーバーの奇襲作戦でも攻撃機が主役を務めましたが、それはシステムとしては組み込まれていなかったということですか。やはり、大艦巨砲主義ですか。
戸部:日本海軍では、真珠湾攻撃で大艦巨砲主義が否定されたわけではなかったと思います。飛行機を使うことはそれ以前からやっていました。ただし、補助兵器ですから、制空権を握ったら、あとは大艦巨砲で敵艦隊を攻撃するという考え方です。
ところが、日米開戦後、途中でアメリカの戦い方が空母主体、つまり航空機による攻撃を主体とする戦い方に変わっていったときに、日本にはそれに対抗して、航空機主体の戦いに切り替えようと思っても、それに応える戦力がありませんでした。とくに、パイロットの養成が追いつきませんでした。陸軍も航空戦の重要性に気付きますが、すでに制空権はありませんし、パイロットもいませんでした。
船橋:パイロットがいない。
戸部:はい。ですから、航空戦を重視して戦い続けるとすれば、特攻に頼るしかなかったのです。
同じ失敗を繰り返さない
船橋:最後になりましたが『失敗の本質』をお書きになった経緯を伺います。日本軍の失敗を検証されているわけですが、敗戦後、日本は占領されていましたから、政府にはその検証ができませんでした。本来なら、占領終了後の最初の国会で特別委員会を作って検証すべきでしたが、国会もそれをしませんでした。結果、検証は個々の研究者に委ねるということになりましたが、さまざまな研究の中で、『失敗の本質』が初めて、組織論も含めて、どこに失敗の原因があったのかという問題に切り込んだ、マイルストーンのような仕事だったと思います。
戸部さんが『失敗の本質』をお書きになったのは弱冠36歳になる年のことです。なぜ、こんなに素晴らしい本が書けたのでしょうか。
戸部:序文にも書きましたが、共著者は全員、名前もない研究費もない私的な研究会のメンバーです。防衛大学校で戦史の教育に携わっていた自衛官の杉之尾孝生さんが研究会の言い出しっぺです。
最初は、危機における国家の意思決定や情報の処理の分析をテーマとしていましたが、途中で行き詰ってしまい、日本の戦史を社会科学的に見直して、敗北の実態を明らかにしようということで、方向転換したんです。ちょうど1980年代で「ジャパン・アズ・ナンバー1」と言われた日本がいちばんいい時でしたが、こんなことが続くはずはないという思いが、特にリーダー役の野中郁次郎先生には強く、組織論的に日本軍の失敗を示し、危機が訪れた際の参考にしてほしいという思いがありました。
しかし、できたのは、やはり若かったからだと思います。年長の野中先生でさえ40代で、私はまだ30代半ばでした。怖いもの知らずで、本当に誰もやっていないことをやってやろうという意識はありました。さまざまな分野の研究者が結集して、学際的に日本軍の失敗を検証し、それを社会に示して還元していくという先例を作りたいという思いもありました。この国がまた同じ失敗を繰り返すことがあってはならないという強い思いでした。
船橋:研究会に結集した若い共著者の皆さんのその熱意が、40年にわたり読み継がれる大ベストセラーを生んだのですね。ありがとうございました。
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