米中は部分的なデカップリングへと向かっている。「デジタル敗戦」と「ワクチン敗戦」に見られる日本のイノベーション力の弱まりとガバナンスと国家統治の脆弱性は、深刻な設問をわれわれに投げかけていると思います。
『失敗の本質』で最も重い指摘は、日本の中に潜む「適応が適応性を妨げる(Adaptation precludes adaptability.)」という過剰適応とそれによるレガシー(遺制)への幽囚です。戦後の経験と体制を完成形にしてしまい、そこから逃れられない。「永遠平時国家」から脱皮できない。
日米同盟を維持しつつ、アメリカから自律し、自ら国を守る。経済安全保障政策を確立する。有事の体制をつくるため、法制度を洗い直す。コロナ危機は、日本にそうした覚悟を求めているのだと思います。
戸部:ご指摘のとおりで、それがあの本のメッセージです。石原莞爾は日露戦争に勝ったのは僥倖だと言っています。なかば偶然、幸運だと指摘しているんです。戦後の日本の発展も、本当は幸運だったのだと私は思います。
確かに、環境にうまく適応したという成功の部分もあるとは思いますが、それがいつまでも続くはずはないのに、幸運であったということを忘れてしまって、サクセスストーリーになってしまいましたから、学習棄却もできず、運がなくなったときのことも考えずにいました。
バブル経済の崩壊以降、何度か経済的な危機は味わっているはずなのに、その体質は依然として変わっていない。それが理解できないところでもあり、日本の抱える課題でもあるのだと思います。
イノベーションを取り込めない
船橋:コロナ対策では、近年イノベーションが著しいICTやAI技術を取り入れることにも失敗しています。中国はAI技術を駆使して雑踏から発熱している人を見つけ、追跡調査するということまでやっていましたが、日本では給付金の申請手続きでさえデジタル化できませんでした。規制のあり方や官庁のメンツの問題もあります。新しいものを取り入れるのは、それまでの対策が不十分だったことを認めることになるという受け止め方をする官僚がいるからです。
戦前の軍部はイノベーションをどのようなかたちで戦略や具体的な軍事作戦に取り入れていたのでしょうか。そこには今日の官僚機構に見られるような闘争や格闘はあったのでしょうか。
戸部:軍事の場合、まず敵が決まります。その後に戦い方を考え、作戦遂行のために必要な武器を開発し、訓練で修練するということになります。
日本軍の場合、最先端技術と、その他の技術との乖離という問題があったと思います。例えば、ゼロ戦は当時の最先端技術の粋を集めた戦闘機ですが、ゼロ戦の初飛行の際、名古屋の三菱で作ったゼロ戦を岐阜県各務原の陸軍の飛行場まで牛車に引かせて運んでいました。つまり、戦闘機という一点では最先端を行っても、最先端の技術がシステム化され、他分野にまで連動することはありませんでした。ですから、イノベーションは一部に留まるということだったのだと思います。
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