日本人が「あまりに無謀な戦争」を仕掛けた真因 歴史のターニングポイントは「ノモンハン事件」
まずノモンハン事件を理解するためには、日中関係を理解する必要があるので、簡単に満州事変からの流れをおさえておこう。
第一次世界大戦で空前の好景気を経験した日本だったが、大正9年(1920)に戦後恐慌に見舞われてから10年以上不景気が続いたうえ、昭和5年(1930)には世界恐慌が波及して昭和恐慌が到来した。
国民のヒーロー「関東軍」の暴走
国民は政党内閣に失望し、軍部に期待するようになる。この支持を背景に関東軍が暴走していく。関東軍は、満州に駐留する日本軍である。ポーツマス条約でロシアから得た関東州(南満州の一部)と満鉄を守備するために駐留した陸軍部隊が、大正8年(1919)に独立して関東軍となったのだ。
関東軍は昭和6年(1931)9月、自分たちで奉天郊外の柳条湖で満鉄線路を爆破し、蔣介石の国民政府(中国を統治していた政権)の仕業だとして中国基地への攻撃を開始(柳条湖事件)する。日本列島の3倍近い面積を有する満州を占領しようとしたのだ。こうして始まった満州事変だが、若槻礼次郎内閣は不拡大方針を公表した。
ところが関東軍はこれを無視して行動を拡大、朝鮮に駐留していた林銑十郎率いる朝鮮(駐箚)軍も勝手に越境して関東軍の支援を始めた。すると軍中央も関東軍の行動を追認。事態を収拾できないと考えた若槻内閣は総辞職した。
一方、不況に苦しむ国民の多くは、関東軍の行動を熱狂的に支持した。翌年、関東軍は占領下においた奉天・吉林・黒竜江省(東三省)に満州国を樹立した。国の執政(リーダー)には、清朝最後の皇帝だった愛新覚羅溥儀が就任するが、完全に関東軍の傀儡国家だった。
さらに関東軍は、北の興安省と西の熱河省へも進軍した。ただ、日本陸軍は満州だけでは満足せず、昭和10年(1935)から満州に隣接する華北五省(河北・山東・山西・綏遠・チャハル省)を中国から切り離して勢力下におこうとした(華北分離工作)。
陸軍がこれほど広大な地を支配しようとするのは、関東軍参謀・石原莞爾の世界最終戦争論の影響が大きかった。
石原は「日本はアメリカと航空機戦を中心とする最終戦争を戦うことになるので、それに耐えうる国力をつける必要がある。だからまず、五カ年計画で経済力をつけてきたソ連が満州を奪う前に日本の植民地にし、持久戦となってもアメリカと戦える国力を保持すべきだ」と考えたのである。
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