日本人が「あまりに無謀な戦争」を仕掛けた真因 歴史のターニングポイントは「ノモンハン事件」
現地の日本軍が武力行使に出たのは、ソ連が日中戦争にどれほど本気で介入してくる気かを判断する材料にするためだったといわれるが、日本が張鼓峰を占拠するとソ連は激しく張鼓峰を攻め立てるようになった。
8月に入ると、さらに機械化された部隊を続々と集結させ、日本の3倍の勢力で戦いを挑んできた。こうして激戦となり、日本軍(第十九師団)は526名の戦死者を出し、戦傷を含めると22%を超える損害率となった。
この苦戦は、日本軍中央が張鼓峰に増派しなかったことも大きい。ソ連が日中戦争に本格参戦することを警戒し、大本営が不拡大方針をとったからである。ただ、近年公開されたソ連側の資料によると、日本軍に比べてソ連軍は倍近い規模の犠牲者を出していたことが判明した。日本軍は寡兵で善戦していたのである。
とはいえ、ギリギリの段階で張鼓峰を維持している状況ゆえ、結局、日本政府からソ連へ停戦を求めることになった。こうして8月中に停戦が成立したわけだが、この武力衝突で日本軍は、ソ連軍が大量の戦車や重砲、航空機を所有する機械化部隊に転身しており、その手強さをはっきり知った。にもかかわらず、何も対応しなかったことで翌年のノモンハン事件の失態を招くことになったのである。
「ノモンハン事件」という名の戦争
翌昭和14年(1939)5月、再びソ連との間で国境紛争が勃発する。ハルハ河東岸のノモンハンと呼ぶ満州国とモンゴル人民共和国(外蒙古)の国境地帯である。モンゴル人民共和国は、ソ連の支援で中国から独立したばかりだった。ノモンハンは満州国もモンゴルも自国の領土と主張する地域である。
5月10日から両国軍の衝突が始まり、日本軍(第二十三師団)はいったんモンゴル軍を退却させたが、ソ連軍が応援に来てモンゴル軍と共に再びノモンハンに陣地をつくりはじめた。
そこで日本軍は一部をノモンハンに派遣したがその主力は全滅した。なおかつ、ソ連軍は大量の航空機や重火砲、そして戦車を含む大兵力をノモンハン付近に集結させたのである。このため日本側(関東軍)も漸次兵力を増やしていった。
じつは、紛争が起こる1ヶ月前、関東軍の作戦参謀・辻政信が「満ソ国境紛争処理要綱」を作成、それが関東軍全軍に通達されていた。国境線をしっかり確定させ、もし紛争が起こったら兵力の多寡に関係なく武力を行使して勝てという内容だった。この要綱が事件を拡大したのは間違いないとされる。
こうしてノモンハンをめぐって日本軍とソ連・モンゴル連合軍の大規模な衝突が始まると、さらに国境紛争という範疇を超え、互いに敵の陣地を激しく空爆しあうようになる。ただ、大本営や軍中央は、敵陣地への空爆は認めていないし、戦いの規模の拡大も赦していない。つまり、またも関東軍(満州国を守備する日本軍)が暴走したのである。
なお、日本の戦車はソ連軍にまったく歯が立たず、第一戦車団は帰還を余儀なくされ、戦いは次第に日本側が劣勢に立たされていった。
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