フクシマとコロナが露わにした日本の根本弱点 国民の安全を保障する体制をいまだ作れてない
フクシマとコロナの危機は同じことを告げている
2020年春、新型コロナウイルス感染症危機が起こった。
4月上旬、緊急事態宣言が発出された頃、私は日本政府のコロナ対応を追跡することにし、アジア・パシフィック・イニシアティブ(API=日本再建イニシアティブ(RJIF)が発展的改組したシンクタンク)主宰の研究グループをつくった。そして、7月、対応を調査・検証するため「新型コロナ対応民間臨時調査会」(小林喜光委員長=コロナ対応民間臨調)を設立した。研究グループのコアメンバー中心にワーキング・グループを立ち上げ、検証作業を始め、10月、報告書(「調査・検証報告書」)を発表した。
フクシマとコロナの2つの危機は私たちに同じことを告げていると私は感じる。
もとよりフクシマ危機とコロナ危機を同列に扱うわけにはいかない。福島原発事故は本質的には人災であり、日本の安全規制文化とガバナンスの歪みを露わにした。これに対して、Covid-19の場合、それはウイルスとの戦いであり、全世界が苦闘し、今もしている全人類的挑戦である。しかし、いずれも日本が「備え」(responseとpreparedness)が著しく弱かった点は共通している。
それも、不意を衝かれたのではない。ブラック・スウォンの奇襲を受けたのでもない。いずれの場合も、ありうるシナリオとして指摘され、警告も出され、政府は問題の所在を認識していた。にもかかわらずに、備えを怠った。
それはなぜなのか?
フクシマの場合、それは「安全神話の罠」でかなりの程度、説明できる。原発重大事故のような経営的、政治的にストレスがかかるリスク管理に当たってはそのリスクを「想定外」として遮断し、リスクの評価そのものを変える。「住民に不必要な誤解と不安を与える」可能性のあるものは、津波対策もシナリオも訓練も技術革新も基準・標準も国際協力も「想定内」に封じ込める。
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