野村総研というシンクタンクの知られざる凄み 野村證券がブランディングに成功したワケ

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これからのシンクタンクには何が求められると思うか、リチャード・クー氏(左)に話を伺った(撮影:尾形文繁)  
シンクタンク・パワーと政策起業力のフロンティアと日本の課題を、シンクタンクや大学、NPOの政策コミュニティーの現場で活躍している第一線の政策起業家たちと議論する本連載。連載最終回は、野村総合研究所主席研究員、リチャード・クー氏との対談後編をお届けする。

船橋 洋一(以下、船橋):前回、シンクタンクの歴史を振り返るとき、バブル崩壊から失われた20年の間に、日本が直面した問題を正面から分析した金融系のシンクタンクの研究は皆無だったと申し上げましたが、例外もあります。

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その1人がクーさんですが、もうお一方、野村総研の高尾義一さんのお仕事もそうでした。1994年の時点で、『平成金融不況』という本を出版され、不良債権の問題を指摘し、公的資金の導入の必要性を最初に主張されました。ある意味で、バランスシート不況論に近いこともすでに主張しています。

それで、野村総研って面白いところだなと思ったのですが、何か秘密があるんですか。

リチャード・クー(以下、クー):私は36年間野村総研に在籍していますが、とくに最初の20年間は、本当にすごいところだなと思いました。

野村総研の強さの秘密

クー:野村総研に移籍する前、私はニューヨーク連邦準備銀行に勤めていました。入行は1981年です。その頃、野村総研は国際化に注力していました。

当時、日本で国際化と言えば、研究者を海外に派遣し、武者修行させることを意味していましたが、野村は海外の研究者を迎え入れることを始めました。アメリカ、ヨーロッパ、アジアから1人ずつ研究者を採用することにしたんです。そのとき、オファーを受けたのが私です。2年契約で契約更新はないという約束で、契約終了後は連銀に戻る予定でした。

野村に来て驚いたのは、同僚たちのレベルの高さです。連銀と遜色ありませんでした。2人3人と顔を合わせると、すぐに天下国家について口角泡を飛ばしての議論が始まる、そんな雰囲気でした。高い問題意識を持ったインテリの集団で、これは面白いと思っているうちに、結局36年間もいることになっちゃいました。

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