野村総研というシンクタンクの知られざる凄み 野村證券がブランディングに成功したワケ

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船橋:もし、トップに「全部任せるから野村総研を最高級のシンクタンクにしてくれ」と頼まれたら、どんなシンクタンクにしたいと思いますか。

クー:私が入った頃のようなシンクタンクにしたいですね。ああいうものが、例えばモルガン・スタンレーやゴールドマン・サックスにあれば、いつでも移籍しようと思っていますが、ありません。世界中、どこを探しても、当時の野村総研のような場所は見当たりません。当時も、外資系のいろんなところが毎週のようにヘッドハンティングに来ていましたが、野村より魅力を感じるところはありませんでした。

野村證券のブランディング

船橋:誰がどういう理由で、どうやってそんな魅力的なシンクタンクを作ったのだと思いますか。

クー:それには1つ背景があります。野村総研の設立は1965年ですが、ご存じのように、当時日本の証券会社は株屋と呼ばれ、社会的地位は決して高くありませんでした。しかし、資本主義の発展のためには証券市場が必要です。そのためには証券会社の地位向上が必須だということで、野村総研を作ったのが、設立の最大の理由です。

最高の環境で最高の人材を集めるという強い決意で、わざわざ鎌倉に山を買って研究所を建てたほどです。モデルはスタンフォード研究所でした。経済だけでなく安全保障を含め、天下国家のあるべき姿を研究するシンクタンクです。総研の社会的評価はあっという間に證券を追い抜いてしまいました。

船橋:野村證券は総研を作ってブランディングに成功したわけだ。

クー:そうですね。「これは野村證券が書いたものではありません。総研が書いたものです」と言ってお客さんにレポートを見せると読んでいただける。証券4社の中の一角から抜け出して、一気に日本一の証券会社の地位に上り詰めたのは、野村総研の信用力があったからです。

證券本体も、総研のブランド力を大切にしていたと思います。総研で36年間働いて、野村證券の誰からも「この証券を売りたいから、こういうふうにレポートを書いてくれ」と依頼されたことは1度もありません。1回でも言われたら辞めてやろうと思っていましたが、なかった。入社したてのペーペーだった時代も含め、1万5000人の社員がいる野村證券の、誰一人として私にそれを言いませんでした。

船橋:それは立派ですね。大蔵省はどうですか。圧力がかかったというような経験はありませんか。高尾さんが「公的資金導入」を主張したときは、当時の大蔵省が株価が下がることを懸念して、「何かオタクは特別な情報でもお持ちなんでしょうか……」とねちっと牽制してきたといった話を聞いたことがあります。

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