フクシマとコロナが露わにした日本の根本弱点 国民の安全を保障する体制をいまだ作れてない

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日本は、国民が「受容できるリスク」を確率論的に評価し、費用対効果を提示しつつ応分の負担を求めることを忌避してきた。「小さな安心を優先させ、大きな安全を犠牲にする」、いわば“安心ポピュリズム”とでもいうべき政治が与野党を問わずに常態化してきたのが実情である。

そういう政治文化と組織文化の中で、有事の対応と危機管理体制をつくることは「不人気政策」として敬遠され、先送りされる。政府も自治体も有事の「備え」に資源も予算も人員も十分に投入しない。

フクシマが教えた日本の空洞

福島原発事故では、危機が最も深刻になった3月15日の「運命の日」未明、菅直人首相は東電本店に乗り込み、ゼッケン姿の社員たちを前に「命をかけてくれ」と絶叫した。国は執行力のある原発事故対応部隊を持っていない。そもそもその日、東電に対策統合本部をつくるまで事故対応の「司令塔」も不在だった。日本の政府は、有事において指揮命令系統、危機対応ガバナンス、なかでも、政府と地方自治体の間の権限と責任の位置づけ、ロジスティックス、コミュニケーション、法制度、政府・国家一丸体制が空洞であることをフクシマは私たちに教えた。

新型コロナウイルス危機に際して、安倍晋三内閣は、当初、司令塔とその事務局の立ち上げでもたついた。内閣府のインフル室は機能せず、場当たり的な対応を迫られた。行政検査主体のPCR等検査は「目詰まり」を起こし、国民皆保険で約束されているはずの国民に対する公正な医療アクセスを提供できなかった。

政府と知事(なかでも都知事)との間では対応の権限と責任をめぐるさや当てが続いた。感染拡大防止と経済再開の両立作戦は、第3波の感染再拡大によって下手すると“共倒れ”の危険を抱えている。実は、これらの人員・組織上の備えの欠如も含む問題の多くは、2009年の新型インフルエンザ(A/H1N1)の勃発後、政府の対応を検証した対策総括会議の報告書(2010年)で指摘されていた。

放射能と同じくウイルスも目に見えない脅威であり、国民の恐怖感は強い。パニックも起こりやすい。危機コミュニケーションは難しい。

そして、官邸(政治家)と専門家会議(科学・技術助言者)の協同作業が欠かせない。ただ、その関係は微妙である。

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