日本人が知らない「大麻」が違法薬物になった理由 栃木県の大麻農家を訪れる昭和天皇の写真も
明治時代以降、海外産の繊維の輸入が増えるに従って、国内産の大麻の生産量は落ち続けていました。しかし、政府は1942年に原麻生産協会を設立し、麻類の増産奨励を行っています。長野県大麻協会が発行した『大麻のあゆみ』には、太平洋戦争当時、全生産量の90%が軍需用だったと記録されています。
敗戦後の1945年、日本はポツダム宣言を受諾し、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の占領下に置かれました。アメリカ軍が主体となったGHQが日本を占領したため、GHQには米軍の印象が強いのですが、本来は11カ国で構成された極東委員会の決定を遂行する機関でした。
日本初の「大麻取扱事件の摘発者」とは?
同年10月12日、GHQは「日本に於ける麻薬製品および記録の管理に関する件」という覚書(メモランダム)を発行しました。麻薬の定義は「あへん、コカイン、モルヒネ、ヘロイン、マリファナ(カンナビス・サティバ・エル)、それらの種子と草木、いかなる形であれ、それらから派生したあらゆる薬物、あらゆる化合物あるいは製剤を含む」とされ、当時の厚生省はこの指令に基づき11月24日、厚生省令第四六号「麻薬原料植物の栽培、麻薬の製造、輸入及輸出等禁止に関する件」を交付しました。
しかし、日本人はこの時点でもまだ戦前と同様、「マリファナとはインド大麻(※1930年に制定された麻薬取締規則において、日本の大麻(繊維型)と区別するために、海外の大麻(薬用型)が「インド大麻」として規制された)のことであり、農作物としての大麻は無関係である」と考えていました。そのため1946年春から夏にかけて、例年どおりに大麻の栽培は行われていました。
ところが、1946年にある事件が起こります。GHQの京都軍政部により、京都府で栽培されていた大麻が発見され、農家2名を含む4名の民間人がGHQの命令違反で検挙されたのです。不運にも、彼らが日本の大麻取扱事件の初の摘発者となりました。
京都府は麻薬採取の目的ではなかったことを訴え、京都大学薬学科、刈米・木村両博士の鑑定書を添付し、インド大麻ではないことを証明しようとしました。しかし、関係者の努力は実らず、「その栽培の目的如何にかかわらず、また麻薬含有の多少を問はず、その栽培を禁止し、種子を含めて本植物を絶滅せよ」との命令が下されたのです。