「僕武器」は武器でなく「首輪」かもしれない理由 「生き延びる」よりも「生きる手応え」を求めて
なぜ私たちは絶えざるイノベーションや技術革新を追求しながら、当の技術革新によって幸せになっていると実感できないのか。それはイノベーションが人間を幸せにする目的で行われているわけではなく、「特別剰余価値」の獲得だけを目的とするからだ。
そんな身もふたもない分析は、本書を貫く、著者の地べたからの視点を伝えるものであり、労働者への叱咤激励でもあるだろう。
本物の「武器」への転換が始まる
『僕武器』は「怒ったところで、状況が好転するわけではない」と述べ、労働者も資本家のように考え、資本家のように働け、と訴えた。
『武器としての「資本論」』は、そうしたメッセージを真に受けた私たちの現在を、生産手段のみならず感性までもが資本に包摂されてしまった状態、「魂の包摂」と名付ける。
生産性を不断に高め、あらゆる商品を買い叩き、剰余価値を生み出す。商品である労働者自身にそうした行動原理を内面化させること。そのプロセスで、私たち人間は労働力商品になる前に誰でも持っている価値を忘却し、資本に奉仕する能力によって価値が決められると思い込むようになる。それこそが新自由主義の最大の発明であり達成だったのかもしれない。そう著者は述べる。
新自由主義はデヴィット・ハーヴェイが言うように「上からの下への階級闘争」だったが、それは具体的には「階級闘争なんてもう古い」と下(労働者)に思い込ませるという手法をとった。『僕武器』もそれを踏襲している。であれば、本書が後半に呼びかけるのが怒りと魂の再建であり、現代にふさわしい形での階級闘争の再開となるのは必然だろう。
2010年代を通じて99%の側に「魂の包摂」を促してきた「武器」本は、2020年刊行の本書を分水嶺にして、本物の「武器」への転換が始まったと思う。その潮流を示すかのように、著名な労働弁護士が今年刊行した本のタイトルは『会社に人生を振り回されない 武器としての労働法』(KADOKAWA、2021年)であった。
私は正直、「生き延びる」というタイトルや宣伝文句にずっと違和感を抱いていた。
この言葉には(他人は死んでも自分だけは)という省略が隠されている。もちろん災害時には自分の身は自分で守らなければならない。でもそれは、世界を理解するために読まれる人文書が日常的に発すべきメッセージだろうか。新自由主義が拡げた格差と貧困は自然現象だろうか。結局、「生き延びるための」というキーワードは、「負け組にならないための」という命令や強迫観念の比喩として作用している。
ただ、「武器」という言葉は、「生き延びる」から派生しながら、そうした限界を超える可能性があるのかもしれない。私たちには、労働者同士で買い叩き合い、出し抜き合い、殺し合うための武器ではなく、ともに連帯して闘うべき相手と闘うための真の「武器」が必要だ。
『武器としての「資本論」』がビジネス書の版元から仕掛けたこのダイナミックな運動を体感するために、私は『僕武器』との読み比べを勧めたい。
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