「僕武器」は武器でなく「首輪」かもしれない理由 「生き延びる」よりも「生きる手応え」を求めて
『資本論』は「商品による商品の生産」が社会を覆いつくした状態を資本制社会(資本主義社会)と定義する。そして資本主義において「富」は「巨大なる商品の集積」として現れると述べる。
資本主義社会特有の「商品=富」
白井はこの記述に着目し、その重要性を次のように説明している。「富はどの時代にも、どの社会にも存在するが、その富が主に商品の形で現れる社会は資本主義社会だけなのだ」と。私たちが生きていくための「富」は資本主義社会以前にもあった。
しかし「商品=富」とされるのは資本主義社会に特有だ。商品は富のような超歴史的な存在ではなく「始まり」を持つ。それゆえ、終わりもある。
「商品による商品の生産」がメインとなる資本主義社会は、「労働力」と「土地」の商品化から始まった。それは言い換えれば、「労働者」と「資本家」との出会いから始まったということであり、労働者も資本家も自然法則のようにずっと昔からいたわけではないということだ。
資本主義以前、人々は土地と生産手段にひも付いて一生を過ごした。住む場所も仕事も生まれたときから決まっていて、ほとんどの土地は売買の対象ではなかった。そうした封建社会と農村共同体を解体することではじめて労働者が生まれ、資本家が生まれた。その解体は「暴力」によって成し遂げられた。
『資本論』で例示される15~16世紀イギリスの「囲い込み」に対し、『武器としての「資本論」』が日本のケースとして示すのは明治時代前半の「松方デフレ」から1929年の世界大恐慌に至る約半世紀の「改革」による暴力だ。
『僕武器』が暴力を語るのは資本主義の前史としての大航海時代のみだが、実際はその後も、土地と生産手段から人々を切り離すため、幾度となく暴力が用いられた。「資本は頭から爪先まで、毛穴という毛穴から、血と脂とを滴らしつつ生まれるのである」という『資本論』の言葉を本書は引用している。それは私たちのほんの何代か前の先祖の血と脂かもしれないのである。
今の経済のマジックワードともいえる「イノベーション」についての考察も印象的だ。
『資本論』では、資本が追い求める剰余価値のうち、生産力の増大で商品を廉売することによって得られる利益を「特別剰余価値」と名付ける。この特別剰余価値こそ「イノベーション」によって得られる剰余価値だと著者は述べる。「商品の集積」としての資本は、空間や時間などの差異から剰余価値を生み出す。特別剰余価値も時間的な差異から生まれる。
それゆえ、イノベーションで生産コストを下げても、まもなく他社に追いつかれ、イノベーション&値下げ競争が延々と続くことになる。
ここは、あらゆる商品は買い叩かれると述べた『僕武器』の議論の前提を共有し補強しながら、『僕武器』の「武器」の中核が「イノベーション」である矛盾を批判した部分として私は読んだ。
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