愚痴多いけどクール「徳川慶喜」ずば抜けた慧眼 後ろ盾が攘夷派でもなびかない聡明な開国派
だが、時代は慶喜に休む暇を与えない。朝廷がしきりに促すのは、攘夷である。自分たちを幕府へ送り込んできた大原は江戸城に上るたびに、幕府に攘夷を迫っている。久光はといえば、幕府に反感を買ったために政治活動がうまくいかず、すでに江戸をたっていた。
京では、久光がいない隙に、長州藩が勢力を拡大。そこに土佐藩が加わり、尊王攘夷運動はさらなる盛り上がりを見せる。まさに京は混沌とした状態だったといってよいだろう。
京からのプレッシャーがあまりに激しく、もともと開国論だった慶永も、攘夷に転向。幕府と対立を深めていく。当然、慶喜もそれに呼応するかと思えた。なにしろ、尊王攘夷の勢力がいつも慶喜の後ろ盾となっていたのだから。
しかし、慶喜は周囲が思うようには決して動かない男である。驚くべきことに、攘夷になびいた慶永に対して、こう反論したのである。
「世界万国が天地の公道に基づいて互いに交誼を図っている今日、わが国だけが鎖国の旧習を守るべきではない」
これは、文久2(1862)年10月1日のことである。冒頭で紹介したように、同じ慶永に対して、安政5(1858)年には「定見がない」と述べていた。慶喜がこの4年で様変わりしたことがわかる。
日米修好通商条約の破棄は外国には承服されがたい
さらに慶喜は、井伊が朝廷を無視して締結したとされる日米修好通商条約についても、国際感あふれる大局的な視点を持ち合わせていた。
「今日の条約は外国から見れば政府と政府の間で取り交わされた約束である。アメリカを恐れて調印したからといって、破棄しようという議論は、国内では通用しても、外国には、とうてい承服されがたいであろう」
まさに「覚醒」である。このとき、慶永は深く理解したことだろう。慶喜にとって、父の斉昭の存在がどれほど大きかったのか。慶喜は攘夷派ではなかった。それどころか極めて聡明な開国派だったのだ。
これから慶喜を中心に、新しい世の中が始まる――。ついに明らかになった慶喜の本当の姿に頼もしさを感じたのだろう。慶永も本来の開国派に戻ることになる。
しかし、である。慶喜が主演である限り、そう単純には物語は進まない。この聡明さもまた慶喜の一部にしかすぎず、そのことを慶永は痛感することになるのだった。
(第3回につづく)
【参考文献】
徳川慶喜『昔夢会筆記―徳川慶喜公回想談』(東洋文庫)
渋沢栄一『徳川慶喜公伝 全4巻』(東洋文庫)
家近良樹『徳川慶喜』(吉川弘文館)
家近良樹『幕末維新の個性①徳川慶喜』(吉川弘文館)
松浦玲『徳川慶喜 将軍家の明治維新 増補版』(中公新書)
野口武彦『慶喜のカリスマ』(講談社)
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