愚痴多いけどクール「徳川慶喜」ずば抜けた慧眼 後ろ盾が攘夷派でもなびかない聡明な開国派
入り込んだ経緯をわざわざ説明したのは、慶喜の置かれた立場をよく想像してほしかったからだ。強烈な父が亡くなったかと思えば、今度は薩摩の島津久光や朝廷が、自分をいいように利用しようとする。将軍後見職としていっても、いったい、誰を動かせるというのか。
慶喜はのちにこんなふうに回想している。
「だいたいあの節の将軍後見職・政事総裁職というものは、ただの大老でもなければ何でもない」
さすがに、幼少期から周囲の期待に振り回されただけあって、クールである。幕府からすれば押し付けられた人事で、慶喜も慶永も招かざる者だ。面白くないから、おのずと役人たちは慶喜と慶永に非協力的な態度になる。針のむしろだ。
それでいて幕府の役人たちは、自分たちの都合のよいときだけ、すり寄ってくるから厄介である。慶喜の愚痴は止まらない。
「形こそ御相談だが、実際は同意させて、将軍後見職や政事総裁職の名前を出して行ってしまえば、朝廷も何も言ってこないし、諸大名も受け入れざるをえないだろうという考えのようだ」
大した権限はなく、負わされるのは責任だけ。これこそが慶喜が最も避けたかった事態に違いないが、幕府と朝廷の血を引く慶喜は、どうしても政争に巻き込まれてしまう運命にあった。
それでも、その運命に抗おうとするのが、慶喜である。決して操り人形にはならない。慶喜の「強情さ」が徐々に発揮されることになる。
「文久の改革」で政治の難しさを実感
慶喜と慶永はのちに「文久の改革」とよばれる幕政改革に着手。改革の柱として、諸大名の参勤交代の条件を大幅に緩和させた。外国からの攻撃に備えて海防を整えるためにも、負担の重い参勤交代の緩和は必要だった。薩摩藩の久光の希望でもあったことは言うまでもない。
諸大名は喜んだが、大名の妻子や藩士が次々に、江戸から立ち去ってしまった。条件を緩和してそれを許したのだから当然だが、その結果、江戸の人口は一気に減少。失業者も増加することになる。
誰かを喜ばせれば、何かが損なわれる。衰退する江戸の街をみながら、慶喜はそんな政治の難しさを実感したかもしれない。
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