愚痴多いけどクール「徳川慶喜」ずば抜けた慧眼 後ろ盾が攘夷派でもなびかない聡明な開国派

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大老の井伊直弼による「安政の大獄」では、そんな過激な父のとばっちりを食うかたちで、慶喜も謹慎することになった。にもかかわらず、慶喜が意地になって極端な謹慎生活を送る一方で、斉昭はというと、言うことをまったくきかずに、わがままに振る舞って、幕府を困らせている。

そんな自由にやりたい放題の父とは対照的に、慎重で意志薄弱だった慶喜。だが、バランスを考えると、そうならざるをえなかったのだろう。

万延元(1860)年8月15日、蟄居処分が解けないまま、斉昭は水戸で急逝。61年の人生を終える。それは慶喜にとって、新たな人生の始まりでもあった。

とはいえ、「桜田門外の変」で井伊が暗殺されて、すぐさま安政の大獄の処罰が解かれたわけではない。安政の大獄は安政5(1858)年から安政6(1859)年にかけて行われた。井伊が暗殺されたのは、安政7(1860)年3月だが、慶喜の謹慎が解けたのは同年の9月4日。つまり、井伊の暗殺後、実に半年も謹慎処分が続けられたことになる。

上記の時系列をみて、お気づきになった読者もいるかもしれない。そう、慶喜の謹慎が解けたのは、斉昭の死後1カ月のこと。幕府からすれば、斉昭が亡くなったことで、ようやく安心して、安政の大獄で処分された者たちの謹慎を解くことができたのだ。つくづく斉昭という男の存在の大きさを感じさせる。

将軍・家茂の後見職の座に就く

謹慎処分が解けると、慶喜は早速、政治の表舞台に引っ張りだされる。若き将軍、家茂の後見職の座に就くことになったのだ。同時に、慶喜と同じく謹慎から明けた慶永は、政事総裁職に就任している。

慶喜と慶永を政権の中枢に据えようと暗躍したのが、尊王攘夷派の公卿、大原重徳である。そのバックには、薩摩藩の国父、島津久光がいた。

このころ、久光は大久保利通らを自分のもとに取り込んで、京を実質的に支配していた。次は江戸だと、久光は朝廷から幕府に勅使を送ることを計画。その役目を背負ったのが、大原である。慶喜と慶永が幕府で登用されたのは、大原が強く迫った結果だった。

実は、幕府はそんな薩摩藩の思惑を見抜いていた。そのため、家茂が将軍に就任してからずっと後見職を務めていた田安慶頼を罷免。理由は「家茂は成人したので、もう後見職は不用」というものだった。そうまでして、慶喜が後見職に就くのを防ごうとしたのが、結局は大原に力で押し切られてしまい、一度、なくした家茂の後見職を復活させ、そこにライバルの慶喜を就任させるという妙なことになった。

ちなみに、江戸に向かう大原に久光も随行している。700もの歩兵を引き連れて久光が江戸に上ったのは、幕府への威嚇そのもの。無位無官の久光が幕政に介入しようとしたことで、幕府から大きな反感を買った。

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