メジャー大会への日本選手の挑戦は1932年全英、全米両オープンに出場した宮本留吉から始まる。結果はいずれも予選落ちだった。メジャーには、歴史の古い順から全英オープン(1860年~)、全米オープン(1895年~)、全米プロ(1916年~)、そしてマスターズがある。
「球聖」と呼ばれたボビー・ジョーンズが1930年にアマチュアとして年間グランドスラム(全米、全英アマ、全米、全英オープンの4冠)を達成した直後に引退。アメリカ・ジョージア州オーガスタにゴルフ場オーガスタ・ナショナル・ゴルフクラブを造り、現役時代に戦った選手たちを招待して1934年に第1回マスターズ(当時オーガスタ・インビテーション・トーナメント)が行われた。以後、4つの大会をメジャーと呼ぶ。
マスターズには、2020年まで延べ132人の日本選手が出場している。1936年、戸田藤一郎、陳清水が初めて招待された。陳が20位、戸田が29位。戸田は「招待試合だから遊びかと思って」と、前の日に飲みすぎたこともあって初日81をたたいたことを、生涯後悔していたという。ここから日本選手の挑戦が始まった。
河野高明が1969年13位、1970年12位に入り「リトル・コーノ」の愛称でパトロンの声援を受けた。1973年、尾崎将が飛距離でパトロンの目を見張らせ、8位と初めてトップ10に名を連ねた。1978年、中嶋は13番ホールでクリークに入れて13をたたいて予選落ち。それでも挑戦を続け、筆者が取材した1986年には優勝争いに加わり、46歳ジャック・ニクラウス(アメリカ)の劇的優勝の陰になったが、日本選手初の4日間通算アンダーパーで8位に食いこんでいる。
青木14回(最高成績1985年16位)、尾崎将19回、中嶋11回と、AONの挑戦でも夢はかなわなかった。丸山茂樹は1998年から9年連続出場したが最高は14位(2002年)。2001年に伊澤利光が初の2桁アンダーで4位タイと、初のトップ5に。2009年には片山晋呉が優勝スコアとは日本選手最少の2打差で4位に入った。日本選手が優勝の扉の前に立つところまできた。
日本人のメジャー初挑戦から89年目での悲願
歩みは遅かったが、着実に先輩たちが道筋をつけ、日本選手のマスターズ初挑戦から85年、日本プロゴルフ殿堂によるとメジャー挑戦でいえば89年、延べ663人目の松山で結実した。メジャーを勝つ難しさ、苦しさを知っている先輩たちが、我がことのように喜び、泣いたのは、そんな歴史の上に立っているからだ。
昨年、2020年は1920年に福井覚治が日本で初めてプロゴルファーという職業に就いてから100周年にあたった。101年目の今年、松山が開いたメジャーの扉は、日本プロゴルフ界の「新しい世紀」が始まったことを宣言したといっていい。その新世紀を生きることになるのが、小学生、中学生、高校生などの若い世代だ。松山は会見でこう言っている。
「これからゴルフを始めたり、10代とか高校生に影響があると思う。初めてのメジャーチャンピオンになったことで、今までだったら日本人にはできないんじゃないかというのがあったと思うが、そこを覆すことができた。やっと日本人でもできることがわかったと思います。もっといい影響を与えられるように、僕はまだまだ頑張っていけたらと思います」
日本でも米国でも、タイガー・ウッズの登場で、それを目標にして育った今の選手も多い。松山も自覚している。今の、そして将来の、ゴルフに関わるすべての人に影響を与える「日本選手メジャー初制覇」になった。
(敬称略)
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