東北が日本を支える。『紙つなげ!』を読む 日本製紙石巻工場、震災と再生の記録

著者フォロー
ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

縮小
 その後、芳賀はクラブハウスの前に立った。それを従業員たちが囲む。みな、不安な表情を浮かべていた。
 芳賀はこう宣言した。
 「これから日本製紙が全力をかけて石巻工場を立て直す!」

3月26日、石巻入りした社長、芳賀氏の力強い一声に、歓声があがった。そして、ここから本格的に石巻工場は再生への道を走り始める。半年後に一機を再稼働させるという目標の下、全国の全従業員が一致団結した。それは、希望の光だった。大きな絶望になすすべなく晒された人々にとって、支えになる未来の光だった。そして、そのことを、社長の芳賀氏、工場長の倉田氏ら上層部は、よくわかっていたに違いない。

当初、倉田工場長以下石巻側は、日本製紙最大のマシン、最新鋭機N6を再稼働させるべく動いていたが、東京本社の営業部の要請で、8号抄紙機を復旧させることに変更した。8号抄紙機は、単行本や、各出版社の文庫本の本文用紙、コミック用紙を製造していた。高度な専門性を持ったこの抄紙機で製造される紙は、他の工場では作れないものも多く、営業部の要請は妥当であるともいえる。「出版業界が8号を待っている」。「出版社が石巻を待っている」。本社の海外販売本部長、佐藤氏は言う。

日本製紙のDNAは出版用紙にあります。我々には、出版社とともに戦前からやって来たという自負がある。出版社と我々には固い絆がある。ここで立ち上げる順番は、どうしても出版社を中心にしたものでなければならなかったのです。

石巻工場の8号抄紙機リーダー、佐藤憲昭氏にも、強い誇りがあった。日本の出版文化を支えているのは石巻だ、「出版業界が8号を待っている」。「出版社が石巻を待っている」。

    書店で自分たちの作った紙に会ったらどう思うかって?『ようっ』て感じですね。震災直後、風呂にも入れない、買い物も不自由。そんなささくれだった被災生活の中で、車に乗って俺たち家族はどこへ行ったと思う?書店だったんですよ。心がどんどんがさつになっていくなか、俺が行きたかったのは書店でした。
 俺たちには、出版を支えているっていう誇りがあります。俺たちはどんな要求にもこたえられる。出版社にどんなものを注文されても、作ってみせる自信があります。

一言に抄紙機を動かす、と言っても、単にスイッチを入れればいいというものではない。まずは電気を通し、ボイラーやタービンといった周辺設備を動かさなければならない。工場の電気設備は押し流されたり、多くが海水に浸かってしまっていて、復旧は困難を極めた。しかし、従業員たちは強かった。瓦礫をどかし、汚泥を取り除き、作業は徹夜に及ぶこともあった。その原動力となったものは、何だったのだろうか。

 街はまるで空襲にでもあったかのような焼野原となっており、その光景が延々と続いている。明るい話など、ほとんど聞かれることはなかった。
 あそこで何人、誰かの家族が何人、と死亡者の数が増えていく。そんな状況の中での工場の復旧は、自分たちの力で唯一手に入れることのできる未来だったのかもしれない。

自分たちの力で未来の光を手に入れる。一歩一歩前進する従業員にとって、明るい光はもう一つあった。日本製紙石巻硬式野球部の存在だ。社会人野球に属する野球部は、震災に傷つけられた石巻の人々の期待という重圧の中、リーグの中で力を尽くして戦っていた。その姿に勇気づけられる人々はきっと多かっただろう。「ハンカチ王子」斎藤佑樹が楽天、田中将大と戦った甲子園の名戦、2006年夏の甲子園大会決勝戦、早稲田実業対駒大苫小牧。その時の早稲田実業キャプテンだった後藤貴司氏は、大学野球で活躍した後、ちょうど震災のあった2011年、日本製紙石巻硬式野球部に入部した。瓦礫を拾うことから始まった石巻での社会人生活。一章を尽くして語られる石巻工場のもう一つの戦い、野球部員たちの苦悩と運命には、思わず涙がこぼれる。

次ページ今だからこそ語られる真実の姿
関連記事
トピックボードAD
ライフの人気記事