東北が日本を支える。『紙つなげ!』を読む 日本製紙石巻工場、震災と再生の記録

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 工場正門の前にある日和山に避難していた従業員たちは、自分の街と工場が沈むのを見ていた。
 「おしまいだ、きっと日本製紙は石巻を見捨てる」
 誰もがそう思った。その日、多くの者は、家を失い、家族を失い、知人を失い、石巻工場を失った。感情がうまく働かない者も大勢いた。

「石巻工場壊滅」。あの日、石巻工場に何が起こったのか。工場長以下幹部が出払った工場で、留守を預かる総務課主任、村上氏は、出先から急いで戻り、避難を指示した。当時、工場内にいたのは1306名。大津波警報が発令されていた。今回は絶対に津波が来る、そう直感していた村上氏によって、速やかに避難指示が出され、持ち場を離れたがらない“職人”従業員たちも日和山へ向かう。

 一五時四八分、地震発生から約一時間後。ゴゴゴゴゴゴ……という異様な音が聞こえた。
 村上が海の方向に目をやると、約一キロ離れた海に土煙が上がり、真っ黒い壁が立ち上がったかと思うと、それが街を押し潰すところが視界に飛び込んできた。眼下に見える家々は、一階部分がまるでダルマ落としのようにひしゃげ、二階部分のみがちぎれて玉突き状態で流れてくる。

同じく激しい揺れに見舞われた日本製紙東京本社では、社長の芳賀氏が必死に情報を集めていた。宮城県内には、石巻と岩沼、二つの工場がある。テレビ画面には波が押し寄せる仙台空港、名取市内の田園を水が走っていく場面が映し出されていた。が、しかし、石巻市の映像はない。被害状況がテレビに映し出されないことが、逆に被害の深刻さを予感させていた。

生々しい11日の様子。避難した山で見た地獄のような光景。しかし結果として、1306名は全員が無事に避難し、一人も命を落とすことはなかった。

従業員は全員が無事であっても、工場はまさに「壊滅」。瓦礫の山で入ることもできない。そしてその工場は、日本の出版用紙の4割を供給する日本製紙の、心臓部ともいえる基幹工場である。工場の危機はすなわち、日本出版界の危機でもあった。出版用紙の供給という差し迫った問題があった。そして基幹工場の「壊滅」は、日本製紙に重要な舵取りを迫っていた。紙の市場が年々縮小傾向にあるのは間違いない。出版界だけでも、『出版指標』によれば2000年の書籍・雑誌の推定販売部数はおよそ41億8000万冊だったのが2012年には25億6000万冊と減じている。出版用紙の供給を大きく担っていた日本製紙、多種多様な用紙の生産技術を持ち、出版界の需要に応え続けてきた日本製紙が、石巻工場の被害を受けてどのような方向に向かうのか。また、その舵取りは、石巻市にとっても重要なことだった。地域の大きな雇用を生み出してきた工場。関連業者も含めると、その経済効果は非常に大きかったはずだ。石巻工場を再生させるのか、それとも閉鎖させるのか。

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