船橋:ある意味、日本は戦後、ずっとこう言ってきたんです。「戦前、有事、有事の連続でどれだけの国民が犠牲になったのか。そうやって日本は戦時体制に突入したのですから、有事なんて滅相もない」と。「安心してください。有事は起こりません。有事なんて起こってはなりません。この言葉は魔語です」と。
今回のパンデミックをきっかけに、政府は、罰則規定や補償規定を改正して、一歩を踏み出しましたが、まだまだです。有事のときに誰が責任を持って指揮権限を与えられるのか。中央政府と都道府県知事の権限と責任をどう切り分け、指揮命令系統をどうつくるのか。そして、国民の自由とプライバシーをどのように守るのか、一時的に、国民に窮屈なことを要請するとするならば、それをどういうルールで行うのか、そういったことも含めて、政府と国民の間の約束事が、まだきちんと決められていません。
須賀:有事に対応できる危機管理体制を整備しましょうという提案は政治からも敬遠されます。そこには触れたくないという雰囲気が支配的です。
社会もまた怖い存在になりうる
船橋:はい。国家がどれだけ恐ろしい存在であるかということはもちろん理解しておく必要があります。有事のときに政府が超法規的に国民に何かを押しつけることも考えられる。しかし、社会もまた怖い存在になりえます。社会の同調圧力、自警団的半強制です。いざというときには、国家権力と社会は一体になり、同調圧力によって、人々の自由や選択を一方的に狭めたり、ゆがめたりすることを憶えておく必要があります。戦前の「特攻」は、おそらく究極の日本的同調圧力の結果であり恐怖だと思います。
だからこそ、本当に国民の自由や権利を守るためには、しっかりとした法治国家体制のもと、有事法制についても法律で定めておくことが必要なのです。むしろ、それを決めていないことのほうが怖いと感じます。ところが、政治も行政もメディアも、「小さな安心」を安売りして、結果的には、「大きな安全」を損なうというわなにはまっています。リスク管理の経営的、社会的、政治的なストレスが高すぎると、リスク評価そのものを変えようとする力学が働くのです。
そして、そういったリスクを「想定外」にする。リスク拒絶(risk denial)です。そうしたリスクを口にすること自体が「人々に不必要な不安と誤解を与える」からという理由です。私はこうした政治・社会心理を「安心ポピュリズム」と呼んでいます。真の安心は、国民も当事者として全体の安全を設計し、参画するところから生まれるのだと思います。「司司の部分安心」ではなく「全体多数の全体安全」を目指す必要があります。
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