マンガ「釣りキチ三平」が秋田で生まれた理由 2020年11月に永眠した矢口高雄氏が遺したもの
「遅咲きのマンガ家」として業界で生き残るために、慣れ親しんだ農村を舞台に自然と人との対峙を描いていこうと決め、生まれたのが「釣りキチ三平」。その大ヒット作を描いたとき、矢口氏はすでに30代半ばになっていた。
三平が怪魚や巨大魚と戦う冒険譚である以上に、昭和時代の高度経済成長を背景に、地方にも及んだ自然破壊への疑問など、矢口氏ならではのメッセージが込められている。
成功後の矢口氏は「マンガを美術館に入る文化にしたい」と、故郷の旧増田町(現在の横手市)に働きかけ1995年、「増田まんが美術館」を開館させた。
その後の大幅リニューアルで2019年には日本で唯一の原画保存に取り組む施設となった。現物保存とデジタルデータの取り込みの両面で、矢口氏が自らの原画4万2000点を寄贈。そのほかにも浦沢直樹氏(『YAWARA!』)、さいとう・たかを氏(『ゴルゴ13』)、東村アキコ氏(『海月姫』)など約180人のマンガ家の、約40万点の原画を収蔵している。
原画をきちんと継承していきたい
クールジャパンの代表格でもある日本のマンガ文化の、根っこにある原画をきちんと継承していきたい、という矢口氏の強い思いがあった。
「『国立マンガアーカイブ』のようなものができるなら、増田まんが美術館がその分館になりたい。何しろ田舎だからスペースだけはある」と話していた通り、原画は最大70万枚の収蔵が可能。矢口氏のいう「アーカイブ」とは、かつて政府内で検討されながら、旧民主党政権下でお蔵入りした「国立メディア芸術総合センター」で、構想の復活を強く望んでいた。
『釣りキチ三平の夢 矢口高雄外伝』では本人への度重なるロングインタビューのみならず、秋田やマンガ界の関係者に幅広く話を聞いた。矢口氏の人柄と功績を浮き彫りにするためで、生前の矢口氏にも人選を相談した。
ただ、候補者の中からただ一人、矢口氏が首を縦に振らなかったのが白土三平氏だった。矢口氏に大きな影響を与え、晩年も親交の深かった白土氏への取材は本来であれば必須だが、理由ははっきりしなかった。今思えば、自分より年長な老マンガ家に負担をかけないよう、気遣ったからではなかったか。そんな優しさを持つマンガ家でもあった。
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