堀江貴文「学校がつらければ行かなくて大丈夫」 義務教育という凡庸なジェネラリスト量産装置
勉強とはつらいものという「間違った刷りこみ」
現在の義務教育では、本質的な学びを得ることはできないと思っている。教える側の先生に、学びとは何か? を理解している人が、あまりにも少ないからだ。
本来、学びとは楽しいものだ。人は、知らないことを知っていくプロセスを気持ちよく感じ、知的欲求を持ち続け、成長を重ねていくようにできている。
けれど教える側の学校の先生は、総じて教え方が下手だ。楽しいはずの勉強を、しゃべりの下手くそな授業で、わざわざ覚えづらいように教える。「よい将来のために勉強しなくてはいけないのだ」と、勉強とはつらいものという、間違った刷りこみにも、なぜだか熱心だ。
学校の勉強がつまらないのは、当然でもある。先生たちに課せられた課題は、反抗心や組織から外れようとする「出る杭」を打ち、平均的に優秀な「オールB」人材を養成することだ。子どもたちの伸びやかで、個性に応じた才能を伸ばしていこうなどとは、考えていない。凡庸なジェネラリストの量産が、義務教育の目的なのだ。
学校は教育の名目で、子どもたちの没頭を奪い、突き抜けた天才の芽を摘み、「オールB」が理想であるという常識を、植えつけている。
その環境でストレスがないという生徒はいいだろうけど、あなたは学校に通ってみて、どうだっただろうか? やりたいことを奪われたり、誰にも傷つけられなかっただろうか?
洗脳型の学校教育によって、偏差値至上主義の、歪んだシステムが生まれた。現行のシステムのせいで、情報化社会のスピードに対応できない偏差値秀才・和製エリートが、量産されてしまったのだ。彼らはペーパーテストには強い。それはそれで、大事な面もある。しかし人としての豊かな知性も、養えているだろうか?
いま多発している、エリート官僚や政治家たちの汚職事件を挙げるまでもなく、和製エリートの知的劣化は目を覆いたくなるほどだ。僕などは、彼らの格好の攻撃対象だ。突出した行動を取る人間を、感情的に叩きまくる風潮の根幹には、義務教育があるだろう。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら