気仙沼「この10年」生き抜いてきた人々の大奮闘 地域商売の正念場、好機と逸機にどう向かうか
「リアス式海岸」が美しい宮城県気仙沼市は、2011年3月11日に発生した東日本大震災と大津波で壊滅的な被害を受けた。
当地は日本有数の漁業の街だが、地域経済の8割を占めていた「水産業」が震災と津波で95%の製造・貯蔵設備が被災した。10年の歳月が流れても震災以前には戻り切っていない。
だが、新たな取り組みで存在感を示す企業もある。
そのひとつが石渡商店(本社工場・気仙沼市松崎柳沢)だ。1957(昭和32)年創業の「フカヒレ専門店」で、震災時に32人だった従業員は42人に増えた。
なぜ、石渡商店は復活できたのか。
今回は同社の事例をはじめ、漁業の街・気仙沼らしい取り組みもあわせて紹介したい。
「フカヒレ以外の商品」にも力を入れてきた
「おかげさまで、コロナ禍でも何とか売り上げをつくれています。看板商品のフカヒレだけでなく、その他の商品に注力したのも功を奏したと思います」
石渡商店の3代目・石渡久師氏(代表取締役専務)は、こう語る。震災後に開発した「オイスターソース」や「帆立とコラーゲンのXO醤」などが売り上げを支えてくれたという。
同社は、フカヒレを現在のような食材にした先駆者だ。生のヒレから余計な皮や骨や肉を取り除いた「素むき」を開発。現在は世界共通の製法となった。
「昭和32年の創業当時、気仙沼の魚市場では一部のフカヒレは使われない部位で廃棄されていました。そこに着目したのが祖父の正男です。神奈川県川崎市にある食品加工会社の研究者だった祖父は会社を辞め、気仙沼に引っ越して商売を始めました」
そう話す石渡氏は、「祖父を支えてきたのは父の正師(まさし)で、2代目社長の父が会社を引っ張ってきた」と付け加える。
正師氏は昭和時代からフカヒレの缶詰を開発したり、いち早く香港に輸出したりもした。
平成天皇の即位の礼の「晩餐会」メニューには、フカヒレの茶碗蒸しも用意された。そのフカヒレは石渡商店が献上したものだという。
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