森喜朗会長の謝罪会見に不信感しか募らない訳 なぜ不用意な「女性蔑視」発言が生まれたのか

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ただ、耳が遠いことは問題ないとしても、多くの人が集まる中、相手に「マスクを取る」というリスクを侵させたことは、謝罪会見という場で適切とは言えません。しかも女性蔑視の謝罪会見で女性記者相手にそれをしたのですから、「謝罪の気持ちがこもっていない」と言われても仕方がないでしょう。

約20分間の会見は、時間が進むたびに森会長の言動に落ち着きがなくなり、それを察したのか司会者がやや強引に会見を打ち切ってしまいました。本当に女性や関係者への謝罪の気持ちがあるのなら、最後まで記者の質問を受けるべきでしょう。もしここで「年齢的な要因で体力的な厳しさがあった」というようなエクスキューズを持ち出すのなら、すでに職をまっとうできる状態ではなく、辞任したほうがいいのかもしれません。

会見を見ていた人々の中には、「ウチの父親もこんな感じで、あまり自覚はないけど女性蔑視」「今さら変われないのだろう」などと感じた人が多かったのではないでしょうか。「この人はもうどうにもならない」と憐れむような目で見られてしまったことが、謝罪会見の失敗を物語っていたのです。

コロナ禍を無視した「五輪は必ずやる」

森会長の失言騒動は、女性蔑視だけではありませんでした。

2月2日、森会長は自民党の合同部会で、「世論が『どういうふうにオリンピックを見ているか』ということが1つ。私たちはコロナがどういう形だろうと必ずやる」とコメントしました。さらに聖火リレーについて、「人気のあるタレントはあまり人が集まらないところで走っていただけたらいいんじゃないか。誰かは田んぼで走ったら一番いいんじゃないか」と発言して批判を招いています。

会見でこのことを聞かれた森会長は、真っ先に「昨日のこと(発言)と合わせて報道されましたが、(この発言は)昨日の会合ではありません。一昨日の自民党の会合です」と釈明。しかし、当然ながら問題は場所がどこかではなく、発言の内容であり、これを釈明の冒頭に使ってしまうところに危機管理意識の甘さが見られます。

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