信長や龍馬のイメージが変わる型破りな歴史観 歴史の「エンタメ化」で身に付く目から鱗の知識

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日本で最初に造られた首都としての都市は、中華の長安を模して作られた=平城京です。それは大和国、今の奈良です。ちなみに、なぜ日本はかつてヤマトと呼ばれたのか?

それはその頃、大陸の中華王朝にとっての「日本人」は、大和国から来ている者たち=平城京を作った天皇家を中心とする豪族たちだったからでしょう。まあ、冒頭でも触れましたが、そもそもその頃の日本人は自分たち自身を日本人と認識してなかったわけですから、正確に言えば、ヤマトの人たちが後に日本人になるわけですが。

僕らは現代でも、そのものの場所や地位を通称として使いますよね。田中社長を田中さんと呼ぶこともあれば、社長とただ地位で呼ぶこともあります。政治界隈のことを永田町と言いますし、官僚のことを霞が関と呼びます。それは国会議事堂や自民党本部が永田町にあり(共産党を所在地で呼ぶとき、代々木と呼んだりします)、官庁が霞が関にあるからそう呼ぶのです。

それは何も日本に限ったことではなく、ロンドン警察は通称スコットランドヤードと言います。これはスコットランドと関係があるわけではなく、警察がスコットランドヤードという庭園の近くにあるからそう呼ばれているのです。同様に日本の警視庁も桜田門と言われたりします。それも桜田門と警視庁に関係があるわけではなく、桜田門の近くに警視庁があるからです。

城を「じょう」ではなく「しろ」と読むようになった経緯

794年に新たな都として平安京が造営されます。それは僧の道鏡が太政大臣から法王の地位に就くなど、僧侶の政治介入が増したことが一因でした。これらの寺社勢力を排除し、自らの政治基盤を確立するために桓武天皇が、有力寺院が強い力を持っていた平城京から遷都したのです。

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京都は当時は「山背国」と言いました。山背とは、まさにヤマトの山の背側にある国だからそういう国名だったのですが、そこに首都がやってきてしまった。首都なのに山の後ろにあるのはおかしいというので、桓武天皇が山“城”と漢字を変えたという説があります。

城を「しろ」と読むようになったのはこのことがきっかけで、訓読みができた後のことです。先ほど、中国語では都市のことを「城市」と書くと述べましたが、「城」という字はもともと都市という意味なのです。

こういった「本来の意味」を気にしてみるのも歴史を興味深くするエンタメ化の1つのやり方だと思います。

角田 陽一郎 バラエティプロデューサー/文化資源学研究者

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かくた よういちろう / Yoichiro Kakuta

バラエティプロデューサー/文化資源学研究者。東京大学文学部西洋史学科卒業後、1994年にTBSテレビ入社。「さんまのスーパーからくりTV」「中居正広の金曜日のスマたちへ」「EXILE魂」「オトナの!」など主にバラエティ番組の企画制作をしながら、2009年ネット動画配信会社goomoを設立。2016年にTBSを退社。映画『げんげ』監督、音楽フェスティバル開催、アプリ制作、舞台演出など多様なメディアビジネスをプロデュース。現在、東京大学大学院博士課程にて文化資源学を研究中。著書:小説『AP』『最速で身につく世界史/日本史』『なぜ僕らはこんなにも働くのだろうか』他多数。週刊プレイボーイにて映画対談連載中、メルマガDIVERSE配信中。

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