信長や龍馬のイメージが変わる型破りな歴史観 歴史の「エンタメ化」で身に付く目から鱗の知識
縄文式土器の命名者はアメリカ人のモースです。1877年に東京の大森で彼が発見した貝塚から出土した土器に縄でつけた文様があったから縄文式土器と名づけ、それを作っていた時代だから縄文時代なのです。
これに続く紀元前3世紀から3世紀頃までの日本史史上2番目に長い弥生時代は、これまた東京の現在東京大学のある文京区弥生で1884年に発掘された弥生式土器から命名されています。
あれ? 弥生から出土した土器を弥生式土器と呼ぶのなら、縄文式土器も本来ならば大森式土器と呼ぶべきですよね! もしそうなっていたら、縄文時代は「大森時代」と呼ばれていたかもしれません。さらにいえば、弥生式土器がはじめて発見された場所が渋谷なら、「渋谷時代」と呼ばれるようになっていたのでしょうか?
このように歴史用語をひも解き、自身の妄想や考えをめぐらせると、固定された歴史観が少し揺らぎ始めませんか。これを僕は、「歴史のエンタメ化」と呼んでいます。
ちなみに縄文時代は、約1万5000年前から約2300年前(紀元前4世紀頃)の結構長い時代を指していますが、それを僕ら日本人が意識し始めたのは、ほんのごく最近です。日本史でいちばん長い時代なのに、織田信長も坂本龍馬も縄文時代を知らなかったことになります。歴史を学ぶうえで、この些細な事実に気づくことは重要です。
その時代の人が、その頃どう思っていたか? どこまで知っていて何を知らなかったのか? 何を当たり前と感じて、何に違和感を感じていたのか? それを考慮しないで現代に生きる僕たちが僕たちの目線や常識でその時代を判断すると、だいぶ歴史を曲解する危険をはらみます。
城がないのに、なぜ「平城京」なのか
都市のことをもともと、中国では「城市」と言います。つまり、都市の中に城があるというより、そもそも都市自体が城なのです(これはヨーロッパでもそうですね)。敵国や異民族に侵入されないように、街全体を城壁で囲みます。
一方、海に囲まれている日本は戦争も敵国や異民族に侵入されることより、その土地の陣取り合戦の様相が強く、街道を閉鎖しやすい山険に建てられた砦を意味する山城が主でした。それが戦国時代が終わり徳川幕府が成立することにより、経済的中心都市の中での大名の居住地として作られる平城が多くなります。
だから都市全体を城壁で囲うという構造は日本では生じなかったというわけです(むしろ戦国時代の一向宗の石山本願寺が、堀や塀で囲んだ寺内町の機能を果たしていて、それが本来の意味での城の役目を担っていたとも言えます。そこにのちに豊臣秀吉が作ったのが大坂城です)。
つまり、城はもともと「じょう」と読んで都市という意味の漢字で、私たちが考える「しろ」の意味ではなかったのです。
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