「渋沢栄一」が20代で発揮した人の心をつかむ技 上司・慶喜を口説き、農民と親しんで人材募る
御徒士に進んで以来、「渋沢篤太夫」と武家風に改名していた渋沢栄一が、一橋家に馴染むにつれて奇妙に思ったのは、同家に兵力が欠けていることであった。
一橋慶喜は弓馬刀槍の達人およそ百人に身辺を守られており、「御床几廻り(旗本)」と称していた。これはあるじの護衛であって、敵とわたり合える兵力ではなかった。
ほかに御持小筒組という小銃配備の歩兵が2小隊あったが、こちらは幕府が付けてくれた部隊なので、慶喜の身に危険が迫った場合、どこまで身を挺して戦ってくれるか。はなはだ心もとない。一橋家の兵力は「禁裏御守衛総督兼摂海防禦指揮」という肩書の仰々しさに比して、やけに寒々としたものでしかなかった。
二軍の戦力を、いかに向上させるか?
一橋家をふくむ「御三卿」は、徳川御三家をプロ野球やプロサッカーチームの一軍とすれば、二軍に似た存在にすぎない。「徳川の平和(パックス・トクガワーナ)」の進行する時代に立てられた家には、軍事力を期待されてはいなかった。
これらのことを訝しく思った栄一は、一橋家用人の黒川嘉兵衛にむかって、「禁裏御守衛というからには、兵力がなくては有名無実ではありませんか」といってみた。
黒川がいうには、幕府にはこれまで兵隊の借用料として月々1万5000両を差し出し、その兵隊たちには年に5000石をあてがってきた。これ以上、兵を借用することはできないし、金のやりくりができたとしても、兵には優劣があるから、ほかから優秀な兵を集めるのはむずかしい、とのこと。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら