「渋沢栄一」が20代で発揮した人の心をつかむ技

上司・慶喜を口説き、農民と親しんで人材募る

「しからば私に一工夫があります」と栄一は答えた。

「御領内の農民を集めて歩兵を組立てたらずいぶん1000人ぐらいは出来ましょう、御話のように金の工夫が付くものなら、二大隊の兵はたちまち備えることが出来ます」(『雨夜譚』)

上司・慶喜と会見し、理論的説明で信頼を得る

戦国の世は兵農分離以前の時代だったので、農閑期に農民が鎧をまとって戦場におもむくことは当然とみなされていた。

その兵農分離を推進した太閤秀吉以降も、農兵の伝統は各地に残り、土佐藩では「一領具足」、薩摩藩では「一日兵児」と呼ばれていた。

「一領具足」とは、田の畔に具足と武器を置いておいて農事に励み、命令を受けるとすぐその具足をまとって出動する者たち、という意味。「一日兵児」とは、一日武者として働くと次の日は農事にいそしむ男たち、という意味合いである。

幕末が近づいて、各地の農村にも不穏な空気がひろがるにつれ、伊豆の韮山代官所の江川太郎左衛門がひろく農兵制度を起こしたことはよく知られている。長州藩領でも高杉晋作が「奇兵隊」その他のいわゆる「長州諸隊」を編成し、「防長市民一同」として農民をこれに加えつつあった。

栄一がこれら農兵の歴史をどこまで承知していたかは不明だが、自身が農民ながら庄屋のせがれで、農民たちをまとめる職務に通じていた。

一橋慶喜に会見させてもらった渋沢栄一は、兵備を設けるには歩兵隊の編制が第一、それには領内から農民を集めるのが最善、適任の者を領地へ派遣して、募集の趣意をよく領民たちに会得させ、進んで応募するようにしなければなりません、その御用は是非私に、と理論的に陳弁して「歩兵取立御用掛」を申しつけられた。

これが元治2年(1865)2月28日のことで、この掛は黒川が用人と兼務する「軍制御用掛」に付属していた。一橋家は、10万石の家格である。その領地は関東の2万3000石のほか、摂津国に1万5000石、和泉国に7、8000石、播磨国に2万石、備中国に3万2、3000石、と散らばっていた。前三者は大坂の川口の代官所が担当し、後者は備中後月郡井原村のそれが統括する。

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