女性を平気で「下の名前」で呼べる人に思うこと 駅名略す人や自ら常連と呼ぶ人と共通点がある
自分の庭のように「三茶」と発する人を見ると
私には、略す資格がない。
例えば三軒茶屋、二子玉川、略したことがありません。こうして表記することさえ抵抗があるのですが、「三茶」「二子玉」と呼ぶにふさわしい基準を私は満たしていないのではないか。そんな葛藤があり、スッと言えないのです。無理して言おうとすると、孫悟空の頭のように喉がキューッと締め付けられ、何かの拍子に略してしまったら、罪悪感に苛まれ、穢れた身体を洗うように、「三軒茶屋」を連呼するでしょう。
長年住んでいたり、普段から度々足を運んでいたりすれば堂々と略せるのですが、あまり接点のない分際で「三茶」と呼ぶ自分に嫌悪感を抱いてしまいます。
教官に付き添われて「三茶」と発する仮免期間を経てから、もしくは、「もう、三茶って呼んでいいのだよ」と、夢の中で略称の神様から許可が下りる。そんな第三者のゴーサインが必要で、できるなら自己判断は避けたいもの。
だから、大して関わりもないのに、自分の庭のように「三茶」と発している人を見ると、憧れを通り越し、なんてデリカシーのない奴だ、きっと人の家に上がって勝手に冷蔵庫を開けるタイプだろう、と秘かに軽蔑の眼差しを向けています。
私には、略す資格がない。
地名だけではありません。アスリートやバンド名も、「え? もう略してんの?!」と驚くことがあります。愛称としてマスコミが早々に略すのに乗っかって、まるで以前から知っていたかのように略す人に対しても、一定の距離を保ちたくなる。なぜ知ったばかりのものを略せるのか。ある程度フルネームで呼ぶ期間を経て、そろそろかなと徐々に略していくのが道理ってものじゃないのか。略すには、しかるべき時間と経験が必要なのです。
そんな私にも、基準を満たしているものはあります。地名で言えば「三宿」。毎月DJイベントを開催し、レコーディング・スタジオがあるのも、会食するのも三宿。かれこれ20年以上、高頻度で足を運んでいるので、厳しく審査されてもクリアしている自負があります。
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