だが、「われわれ」とはアップルではないか。そしてアップルという会社はジョブズの作品であり、拡張された彼の身体である。「現実歪曲フィールド」として名高い(悪名高い)見方によればそうなる。したがってアップルの製品を届けることは、ジョブズにとっては自分の作品、しかも心づくしの作品を届けることなのだ。
作品? 確かにジョブズが世に問うた製品には、どれも彼の「作品」といった趣がある。言うまでもなく作品と製品は違う。作品とは独特の精神的な内部を備え、そこに作者との緊密なつながりをもち、ある程度まで作者の人格と似たようなあり方をしている個性的な作物のことだ。
彼が手がけたアップルの製品は、現にそのようなものであり続けたのではないだろうか。隅々にまでジョブズの神経が行き届いており、製品は「作品」として彼の内面や人格を映し出すようなものになっている。その作品が批判されると、自分という人間が否定されたような気がして人一倍傷つくことになる。
メーカーが上から目線で押し付けていた携帯電話の革命
そんなジョブズのアーティスティックな個性がもっともよく反映されているのは、やはりiPhoneだろう。きっかけは携帯電話だったらしい。既存の携帯電話は彼には複雑すぎると思えた。使い方のわからない機能がたくさんついている。こんなこともできます、こんな機能も付いています、とメーカーが上から目線で押し付けている。
ジョブズが求めたのは友達や仲間と共有できる魅力的なマシンだった。買った人が自分の友達に見せびらかしたいと思うような、持っているだけで誇りを感じられるような、そういうマシンを彼は作りたかった。車ではありうる。ポルシェやフェラーリなどがそうだ。しかし携帯電話のようなガジェットで、ライフスタイル・ブランドと呼べるものを生み出したのはジョブズのほかに誰がいるだろう?
やり方を見てみよう。まず彼はキーボードもスタライス・ペンもないタブレットというコンセプトを提示する。最初はiPodに搭載されているホイールを使おうとしたがうまくいかない。曲目をスクロールするには便利だが、番号の入力には不向きだった。試行錯誤の末にマルチ・タッチのアイデアが生まれる。
アイデアとしてはすばらしい。問題はそれをどうやって携帯電話に搭載するかだ。エンジニアリング的に可能なのか。実現すればゲインは大きいが、失敗するリスクも高い。会社の存続にかかわる大きな賭けだった。こうした場合、ジョブズはたいていリスクの高いほうに賭ける。そればかりではない。自らがハードルを高くして、より大きなリスクをとるように仕向ける。