いまから考えると、インベーダー・ゲームはパーソナル・コンピューターの要素をほとんど兼ね備えていたことになる。しかし当時はそんなことに気づくはずもなく、夏休みが終わるとゲームに対する情熱はうそのように冷めてしまった。僕にとってそれはひと夏の体験にすぎなかった。
だが、熱が冷めなかった人たちもいた。サンフランシスコのベイエリアにも、僕たちと同じようにコンピューター・ゲームに夢中になった若者が大勢いたはずだ。
彼らの一部は筋金入りの電子機器のマニアで、のちに「ハッカー」とか「ギーク」とか呼ばれるようになる。無線機を改造して盗聴を働いたり、電話をただでかけたり、といったことに夢中になるタイプの連中だ。もともといたずら好きの気質をもっていたのだろう。彼らにとってコンピューター・ゲームは格好の遊び道具であるとともに、自分たちの技術を試す実験の場でもあった。
こうした人たちの中から、自分で会社を立ち上げようという者が現れてくる。ゲーム会社「アタリ」を設立したノーラン・ブッシュネルもその1人だった。彼が1972年に作ったゲーム・マシン「ポン」は単純なピンポン・ゲームだ。このマシンが大ヒットして会社は急速に大きくなっていく。1974年、リード大学を中退してロス・アルトスの自宅に戻っていたジョブズが、「雇ってくれるまで帰らない」と言ってもぐりこんだ会社である。
そのころヒューレット・パッカードに勤めていたウォズニアックはアタリ社の近くのアパートに住んでおり、夜になると会社にやって来てビデオ・ゲームで遊んだりしていたらしい。
1975年、ブッシュネルはポンの改良版(「ブレイクアウト」)の開発をジョブズに指示する。ジョブズはウォズニアックを巻き込んでこれを完成させる。以前にも2人は「ブルー・ボックス」という怪しげな機械で小銭を稼いだことがあった。
1971年、ある雑誌にAT&T社の交換機に使われるトーンをつくり出すことで、長距離電話をただでかける方法を見つけたハッカーの話が紹介されていた。それを読んだウォズニアックはデジタル式発信機「ブルー・ボックス」を自分で作ろうと思い立ち、完成にこぎつける。
このやり方で世界を変えることができる
これを金儲けに結び付けたのはジョブズだ。彼は必要な部品を調達し、出来上がった製品を売りさばいていった。このとき2人は確かな手応えを感じたはずだ。自分たちの作ったもので世界の電話網を制御したのだ。このやり方で世界に衝撃を与えることができる。世界を変えることができる。
すでにマイクロ・チップなどの部品が安くなっており、個人でもコンピューターを持てる時代になっていた。しかし製品として作っている会社はない。それなら自分で作ろうとウォズニアックは考える。こうして生まれたのが「アップルⅠ」と呼ばれるワンボード・マイコンである。
ホームブリューの例会で紹介すると好評だったため、人のいいウォズニアックは回路図の無料配布を始める。ジョブズはこれをやめさせ、自分たちでプリント基板を作って販売しようと説得する。ウォズニアックが作ったものをジョブズがビジネスにしていく。いよいよ彼らの会社を立ち上げる時機が来ていた。
(第5回に続く)
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